2022年2月24日木曜日

最終回

大阪球場の一塁側内野スタンドの最上段、照明塔の真下で座ることなく観戦したのは、昭和63年10月15日の土曜日。南海ホークスのこの本拠地球場における最終戦。入場無料だった。

試合終了後、杉浦忠監督以下、コーチ、選手がひとりずつ名前を呼ばれてベンチから姿を見せ、マウンドを中心にして一三塁間に整列する。

「藤原満コーチ」というアナウンスの後、すぐ近くにいたおっちゃんが「ふじわら……」とつぶやいたのが聞こえた。叫んだのではない。つぶやいたのだった。その気持ちが痛いほどわかった。野村野球を熟知し、三塁から司令塔の役目を果たしていた藤原満。打撃コーチだった高畠のすすめで「すりこぎ(ツチノコ)バット」を採用した選手であり、内角低めの球を無理やり右に打ち返していた姿が記憶に残る。市原稔は東京スポーツの「ID野球の原点・シンキングベースボールの内幕」で「内
角球を強引に逆方向へ――。その打ち方をいち早くマスターしたのは藤原満だろうか」(東京スポーツ2020年12月29日)と述べている。まったく無理やりの見事な右打ちだった。打席に入ると、立ち位置を決め、そしてこの重いバットをガツンとホームベースに叩きつけていた。これでバットが折れてしまったこともあったとどこかで読んだように思う。

藤原は「野村さんが唱えた『シンキングベースボール』の洗礼を受け、チームを勝利に導くための自分の役割が明確になった」、「野村さんに感謝」し、「恩人の一人」だと述べている。野村克也の死去に際しては、「野球に関しては本当に素晴らしい方で、私がここまでこれたのも野村さんのおかげ」とも話しているが、「野球に関しては」という一言を見逃さずにはおれない。また、野村沙知代から電話が原因で夫人が泣いていたこと、野村解任時に南海に残留したことについて、後年、ノムラさんから「この裏切者が」と「冗談交じりに非難」されて困ったとも語っている(以上、西日本スポーツ「ホークス一筋・藤原満さん聞き書き『ぶれない』」)。

知りたいのは、なぜ残留したのか、江夏、柏原、高畠とどんな話があったのかということだが、それは語られていない。あの時のことをこの連載記事でもっと語ってほしかった。彼が「プライドそのもの」と呼ぶ南海ホークスは、私の誇りでもあった。

あぁ、南海ホークス。あぁ、ノムラさん。

野村克也氏が南海ホークスの監督だった時代、とりわけ昭和51年と52年について記してきました。余計な一言もあったかもしれないし、また言い足りないこともあったかもしれません。記憶は薄れゆくばかりであり、これを以って最終回といたします。

そもそも、パソコンの故障によって自己満足の文章が失われることを防ごうとして始めたブログであり、皆さまに読んでいただこうとして始めたものではありませんでした。お読みいただいた方たちに深くお礼申し上げます。

(写真=著作権は著作権者に帰属します)

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2022年2月10日木曜日

薄れゆく南海ホークスの記憶

 野村南海時代の最後に、センター新井宏昌、ショート定岡智秋とともにセカンドのレギュラーとなった河埜敬幸は、以後の勝てない南海について、「僕らも『なんでかな』と苦しいばかりだった。野村監督が築き上げたデータに基づく細かい野球が途切れて、大味になっていたのかな……」(毎日新聞2022年1月29日)と言う。彼が思うように、本当に「大味になっていた」のだったなら、広瀬時代に緻密さが途切れ、ブレイザーがそれを復活させようとしたものの、穴吹、杉浦の時代で潰えたということも言えるのかもしれない。また、野村夫妻が共に死去して「三悪人」以外の当時の選手たちの回想がやっと取材に答える形で出てきたのだろうか。

南海ホークスと言えば鶴岡時代がそれを代表するのだと考えるのは間違いだろう。野村南海においては昭和48年のリーグ優勝後も鶴岡野球とは違う種類の野球が進化していたはずで、その成果は昭和51年と52年の成績にはっきりと現れている。野村解任後の低迷について、河埜敬幸の短い証言の他は、藤原満が「『私が引退して強くなれば』と言ってコーチを引き受けましたが、全然強くならなかった…」と述べているのみである(西日本スポーツ2022年1月27日)。

「大天上」に「ダットサン」、ファンブック掲載の写真はピンボケ、また中百舌鳥の団地が背景に写っているなど、洗練無縁にかけては最上級の南海球団が、台湾から高英傑と李来発を獲得したことには先見性が見られ、ブレイザーを監督として招き、コーチとして与那嶺要とバーニー・シュルツを迎えたのはデータ野球の復活に画期的なことではあった。


しかし、監督とコーチがアメリカ人。取材も満足にできずにさほど注目もされず(できず)、彼らの考えがチームに浸透することもなかったのではなかろうか。球団は意思疎通について、無策だったのではなかろうか。他のコーチや選手は頭を抱えたのではなかろうか。一手に責任を負っていたはずの市原稔から、ブレイザーが球団についてどう思っていたのか証言を得たいものだ。

(写真=南海ホークスファンブック1981年、『あぶさん』(「雑草市野球旅」)) 

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