2022年2月7日月曜日

「なんばパークス」が「なんばホークス」に見えたりする

 引退時に「おまえ、監督になりたかったんやろ」と野村克也に言われた杉浦忠が南海ホークス最後の監督だったのは何かの皮肉だろうか。

その開業から数年後、大阪球場跡に建設された商業施設「なんばパークス」にある南海ホークスの「メモリアル・ギャラリー」を訪れてみたことがあったが何とも貧相だった。

「何これ?」

まず、ギャラリーとやらのために、あそこまで上っていく人がどれだけあるのだろう。野村とブレイザーが並んで写っていたはずのパネルは縦に分断され、プレイザーだけが写っていた。あのしょぼいスペースに野村克也に関連する展示を拒絶したのは、やはり野村沙知代らしい。そして、あのホームベースを見て大阪球場を思い出す人も少ないだろう。

南海ホークスはもうこの世にない。このギャラリーを訪れる人たちも次第になくなってゆき、遠くない将来消滅するような気もする。「なんばパークス」が「なんばホークス」に見えたりして悲しい。

南海ホークスの売却時に
「私は西武OB」だと発言し
ていたノムラさんは楽天球団監督としての最終年だった平成21年のシーズン後半に「元楽天」より「元南海」として知られたいと話している。郷愁だろうか。後悔だろうか。そう言いながら、楽天球団の「(期限付き)名誉監督」とやらに就任している。

令和3年、なんばパークスの「メモリアル・ギャラリー」にノムラさんの記録も加えられたという。そのための資金をクラウドファンディングで集めたのは江本孟紀だったそうだが、ノムラさん関連の展示ぐらい南海電鉄に頼めば、資金集めの必要などなくてもできそうなのにと思うのは間違いだろうか。(式典で江本が着ていたあの緑と黄のユニフォームは色がおかしい。自分で作りたいぐらいである。)野村夫妻が死去してしまった今、つまり展示することに反対することのいなくなってしまった今、あのスペースを改装して、野村克也の展示を追加するのに何でそんなにカネを集めて南海電鉄にお願いする必要があったのだろうか。

日本のプロ野球に革新をもたらしたとも言える野村克也を高く評価する人は、彼が南海ホークス監督だった時代のコーチや選手たちにも多いだろう。

しかし、彼と同時に退団、移籍した江夏豊、柏原純一、高畠導宏とは違って、解任後も南海に残った選手たちのことを考えると、残留して当然という気持ちと、南海ホークスでの野村野球が衰退してしまったことへの残念が入り混じる。(江夏と高畠のその後の心情については、『左腕の誇り』や『甲子園への遺言』などの著作から知ることができる。)

(写真=(おそらく)1970年10月18日(大阪)、2013年8月31日(福岡):著作権は著作権者に帰属します)

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