2022年1月31日月曜日

偽復刻ユニフォーム

どの球団も復刻ユニフォームとかいうものをあるシリーズに限って着用するようになったのは、もう何年も前のことだ。

選手、そして助監督として、ずっと読売で過ごした王貞治が福岡ダイエーの監督時代に甲子園球場に鶴岡時代の南海ユニフォームで 登場したときは驚いたし、その後に復刻として採用されたものにも感慨はある。

しかし、復刻と呼ぶなら、その時々の流行りに影響されることなく、もっと忠実に再現してほしいものもある。でなければ、復刻と呼ぶべきではなかろう。忠実にしてこそ、当時を知る人たちも、そうではない人たちも、「あぁ、あの時はそうだった」「あぁ、あの時はそうだったのか」と思えるはず。

袖の長さも違えば、ラインの幅も違う。おまけに帽子のマークの縫い方も違う。ひどい。デタラメな復刻ならやめたほうがよい。当時の資料を調べれば、すぐにわかるのに……。近年の復刻はまったくニセモノと呼んでもいい。

(写真=日刊スポーツ(2018年11月24日))

2022年1月24日月曜日

『あぶさん』は大人の物語だった

 昨年末に『あぶさん』からの絵をいくつか使わせていただいていたら、1月17日、水島新司氏の訃報があった。功績についてはここで言うまでもない。お悔みを申し上げるとともに、南海ホークスへの関心を数倍も高めていただいたことにお礼を申し上げたい。 

しかし、彼の代表作のひとつである『あぶさん』について、あの作品は陽の当たらないパ・リーグを舞台として、大酒のみで代打専門の「景浦安武」を題材にしたものであることは語られているものの、「ビッグコミックオリジナル」に連載されていたことからもわかるように、『ドカベン』とは違って、そもそも「大人の物語」であったことを指摘する記事が見当たらないのはなぜだろうかと思う。

記事を執筆する人たちが『あぶさん』を読んだこともなければ、あの時代を実際に経験していないのだろう。小生が読み始めたときはすでに第7巻まで発刊されていたが、これは未成年者が読んではいけないものではないかと思ったりしたのだ。

野村克也の打撃ポーズなどはカルビー・ポテトチップスの野球カードから拝借したようなものがあったことを思い出す。また、ユニフォームの「Hawks」の「H」がどうにもうまく描けていなかったことも多かった。すでに書いたように思うが、『あぶさん』は大人の物語から、景浦安武の結婚後は「サザエさん」となり、その後は「スーパーマン」となってしまった。ここにも、野村解任の影響がはっきりと見える。水島新司による野村南海をもっと経験したかった。

(写真=『あぶさん』から「のんべ鷹」「御堂筋銀杏並木」「麻衣子」「同」) 

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2022年1月3日月曜日

無残、難波球場(2)

内野席で一段踏み外せば重症を覚悟しなければならなかったような、大阪球場。昭和52年の開幕前にスタンドが改装された。毎日放送だったか、ラジオ大阪だったか覚えていないが、この改装についての問いに野村監督は、「ペンキを塗り替えただけ」と答えていた。その通りだった。 

また、ファウルエリアの芝生は外野からコーチのボックスを越えたところまで延びていたものだが、それがボックスの外野側手前までとなり、最後は外野エリアにあるだけとなった。

昭和53年に当時としてはきわめて画期的な横浜スタジアムが、その後は東京ドームが開業し、関西では阪神の本拠地である甲子園、そしてハイカラさを何とか保っていた西宮と比べても、難波の大阪球場の貧相さは森ノ宮の日生とともに目立ったのである。

その後は、小生の投書が役に立ったのかは知らないが、線路の資材を使っていたという客席からの視野を遮っていたスクリーン、つまりバックネットが新しくなったぐらいで、以前記したファンブックと同様に洗練無縁を貫いた。昔からプロレス興行やサーカス、またコンサートの会場として使われたりもしたが、野球場としての使命を終えてからは、無残であった。その扱いは野球場への冒涜でさえあった。

 (写真=平成6年9月24日、著作権は著作権者に帰属します)

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2022年1月1日土曜日

無残、難波球場(1)

ラッパ小僧たちが現れてからずいぶん年月が経つが、小僧たちのおかげでプロ野球の応援はすっかり変わってしまった。外野席に陣取る「応援団」は試合を見ているのだろうかと考えさせられる。緊張しながら静かに見守る場面など野球には存在しないような雰囲気。ゆっくり観戦ということが外野席では不可能になってしまった。吹奏楽部を動員して応援するのは高校野球と決まっていた。小僧たちのガナリたてるだけのラッパ演奏とは違って練習を積んでの演奏だから、音楽を聴かせようともする。プロ野球の試合は異質で、「かっとばせー」などという高校生レベルの応援はなく、客席のオトナたちはみんな玄人だった。

 

また、野球場自体もずいぶん様変わりして、もっぱら家族連れ向けの遊園地化してしまい、ある意味では野球観戦を楽しみたい人たちが近づきにくい空間になってしまった。酔っ払いのオッサンがいる場所ではなくなった。そんな意味で野球場らしかった大阪、日生、藤井寺、そしてちょっと上品な阪急沿線の西宮。もう、どれも姿を消してしまった。

 

後楽園が人工芝になれば、どこもかしこも人工芝。東京ドームができれば、新しい球場はどこもドーム型。運営上の利益を優先して、野球場が野球場でなくなっていった。やっと最近になって、広島のマツダスタジアムがその傾向を破ったかなとは思う。

 ちなみに、まだドーム球場が日本になかった頃、大阪球場のドーム化計画をスポーツニッポンが伝えていた。工法は気圧差を利用したもので、後の東京ドームと基本的に同じだった。

 

狭い敷地に建てたもんだから、大阪球場の内野スタンドは急傾斜で、一段踏み外せばグラウンドまで真っ逆さまに落ちそうだった。 

チームの成績に比例するように、球場の整備も難しくなっていったのだろう。コーチャーズ・ボックスからホームベース方向へと伸びていたファウルグラウンドの芝生は、ボックスを越えた所までになってしまい、そしてボックスの外野側まで短くなってしまった。スクリーン(バックネット)に沿うようにあった芝生もなくなってしまった。

野球場としての使命を果たした後は、「なんば大阪球場住宅博」となり、無残な姿をさらすことになった。

 (写真=昭和31年8月19日、同49年6月2日、同50年5月5日、同56年6月9日、同63年10月2日、同63年10月15日。著作権は著作権者に帰属します)

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