2008年4月30日水曜日

後期前半、阪急の出足遅く混戦

7月2日に開幕した後期初戦となった大阪球場でのロッテ戦は江夏と村田の投げ合いとなったが、後期になっても「江夏が投げると打てない」。江夏はロッテ打線を5安打に抑えて完投したものの、初回、有藤に12号2ランを許し9敗目(4勝)。ホークスは定岡の安打1本だけで、二塁も踏めずに終わった。それでも、第2戦は山内が3-1の完投で11勝目、さらに第3戦は中山から佐藤へのリレーで11-4と14安打で大勝し、開幕カードに勝ち越した。

ロッテが挙げた2戦目の1点はJ・ラフィーバーの5号ソロによるものだった。ロッテにラフィーバー、南海にビュフォード……。ラフィーバーは、後にシアトル、シカゴ(カブス)、ミルウォーキーで監督を務め、現在は中国ナショナルチーム監督。一方、ビュフォードはボルティモア、SF、ワシントンでコーチを歴任した。

ビュフォードが太平洋クラブに、またラフィーバーがロッテに入団した昭和48(1973)年は金田正一の現場復帰の年でもあった。ロッテガムの包装紙には、ラフィーバーの他、成田文男、木樽正明、G・アルトマンなど、オリオンズ選手のイラストが描かれていた。金田監督自身もロッテのテレビCMに長嶋とともに出演。読売の選手が他社のCMに出演したこと、「ガムはロッテ」(カネやん)「野球は巨人」(長嶋)の掛け合いが話題だった。

後期第2節修了時点で、南海は5勝3敗1分けで2位。前期優勝の阪急は2勝4敗1分けで最下位。首位は前期5位に終わった近鉄(4勝2敗1分け)という混戦で後期は始まった。

7月13日からの対近鉄3連戦(日生)の初戦。神部年男に0-5で完封負け。4回を投げて自責点1の江夏は10敗目(5勝)となった。近鉄打線にはこの試合で22号を放ったジョーンズにロリッチと、ホークスに在籍した2人が4番と5番にいた。

14日、近鉄先発に井本隆から4回までに3点を奪い、その後も6、7回に1点づつ追加し、5-0とする。山内は8回、阿部成宏に3ラン、9回にはジョーンズにソロを浴びて1点差まで詰め寄られるが、完投で12勝目(7敗)を挙げた。15日は中山が初回に佐々木恭介の3ランを浴び、2回に1点を失い早々と降板。近鉄先発が鈴木啓示では敗戦濃厚だったが、中山を継いだ星野秀孝、藤田が追加点を許さず、一方、打線は3回に1点を返した後、4回に3点を追加して同点に持ち込む。7回に勝ち越すと、8回裏から前々日に先発した江夏を投入して逃げ切った。2回を1安打3三振に抑えた江夏は4セーブ目。

7勝4敗とした南海は首位に立つ。阪急は3勝6敗で最下位のまま。しかし、首位から最下位までわずか3ゲーム差しかない状態だった。

オールスター明けの第4節は大阪球場での対近鉄4連戦(23~26日)から。前回完封された神部に6回まで0-3という劣勢を、7回にロブソンの第3号で形勢を変え、8回には井本から門田が18号2ランで一気に逆転した。山内はこの試合も完投で13勝。

24日。鈴木を相手に、中山(5回)、藤田(2回)、江夏(2回)の継投で近鉄を完封する。(藤原は3打数3安打。)25日は、0-4の6回表2死から登板した池之上格がどうにもならない。9回表にすべて自責となる11点(ワイルドピッチ3)を許して、0-15で坂東里視に5安打完封される。この池之上スーパー乱調はラジオで聴いていた。池之上はその後、打者に転向する。

対近鉄後期第7回戦となった26日は、藤田が先発。初回に2点を奪われ、打線は太田幸司から得点できず援護なし。5回から登板の佐藤も6回に1点を奪われ0-3。6回裏に2点を返すと、8回裏には鈴木からさらに2点を追加して、この4連戦を3勝1敗とした。リリーフの佐藤はこれで6勝1敗。これで近鉄は一気に4位まで転落し、10勝5敗のホークスは2位日本ハムに1.5ゲーム差をつけた。阪急はと言うと、4勝8敗で5位に沈んだままだった。

オールスター前に首位打者に立った門田は、後期第4節修了時点でも.309で打撃10傑のトップで好調を維持していた。

第5節の7月27日、日本ハム戦(大阪)で6盗塁(ビュフォード3、阪田、柏原、桜井)を決め、柏原が3打点、新井が2打点。先発山内の完封(7-0)で完勝し、31日の太平洋クラブ戦(平和台)では藤田が初完投(3勝1敗)する。しかし、翌8月1日は藤原の先頭打者ホームランの1点のみで、山内も打ち込まれ1-7と敗戦。この節、ロッテは負けなし。神宮で近鉄を3タテの後、札幌では日本ハムに2勝1分けで、南海はロッテに首位を明け渡す。

8月4日から8日までの第6節。仙台で村田に4安打完封負け(0-8)の後、7日は北陸富山・高岡では藤原と門田がともに2安打2打点、先発山内は完投して15勝8敗とした(5-1)。翌日のダブルヘッダー(富山)では、松原と星野が打ち込まれ、5回表で8-0の劣勢をその裏に4点を返し、さらに7回には3点追加で1点差。9回2死から片平晋作が同点打を放ち、引き分けに持ち込んだ。投げては7回から登板した佐藤が得点を許さなかった。第2戦は、片平の10号2ランなどで7-0。藤田がプロ初完封で4勝目を挙げた。首位ロッテとの差は1ゲーム。そして前期優勝の阪急がそろそろと順位を上げ始めた。

第6節を終わって、首位は15勝8敗のロッテ。2位ホークスは14勝9敗、阪急は3位の日本ハムに0.5ゲーム差まで詰め寄っていた。

(写真=7月2日(大阪):有藤が初回に江夏から2ラン。新人王に向けて走り出した藤田。池之上(「1976年南海ホークス・ファンブック」から)。打者転向後の池之上(83年頃)。8月4日(仙台):2回裏1死で先制2ランの有藤と南海打線を4安打に抑えて完封した村田。著作権は著作権者に帰属します。)

2008年4月14日月曜日

前期2位に終わる。首位阪急から5ゲーム差

前期第8節。5月18日(静岡)での対日本ハム戦で山内が6連勝(7勝2敗)、翌日は中山が4-0で完封する。しかし翌々日は1-3で敗戦し、またもや江夏が投げると打てない。首位阪急は山口高志が20日の近鉄戦で3安打9三振で完封して復活。第9節の25日の対太平洋クラブ(平和台)で4番に座ったT・ロブソン(後の千葉ロッテ打撃コーチ)が2安打4打点と活躍し、山内はハーラートップとなる8勝目を挙げた。ところが翌日は新人古賀正明に完封負け(0-4、敗戦投手中山)した後、27日は松原で、また28~29日の阪急戦(西宮)は江夏、山内で敗れて4連敗する。

第10節。2位ロッテとの3連戦(大阪、6月1~3日)を2勝1敗で勝ち越す。3戦目こそ山内で落とした(3-4)が、初戦は中山が完投し、2戦目は0-4から逆転して5-4で勝利。4日の対太平洋クラブ戦(大阪)では、江夏が5安打に抑えて前月5日以来の勝ち星。西京極でロッテを破った阪急には同日、マジック15が点灯した。

6日は東尾、永射を打ち崩す。7回、桜井のスクイズで2塁走者の柏原まで生還する「2ランスクイズ」を成功させ、10-4と圧倒した。5番ロブソン4の3、6番ビュフォード4の3(4打点)、7番柏原5の3。(毎日放送のテレビ中継があったと記憶する。)

第11節に入っていた11日の日本ハム戦(大阪)に、またもや江夏で惜敗(1-2)。翌日からの阪急3連戦の初戦、第2戦にも敗れて3連敗する。阪急のマジックは8まで減る。同節終了時点で、ホークスは3位に順位を下げる(2位ロッテとのゲーム差は0.5)。

しかし……6月19日からの阪急戦で3連勝!第1戦は初回に1点先制されるものの、その裏に2点取って逆転し、さらに2回には5点を奪って楽勝した(10-2)。門田が12、13号を放てば、山内は完投して10勝目を挙げた。20日のダブルヘッダー第1試合は新井が4打数4安打。山口から7点を奪い、星野から佐藤と継いで快勝(7-3)。さらに、対阪急前期最終戦となった第2試合では、2-0とリードされた4回に1点を返し、5回に3点、6回に2点と阪急を引き離し、松原-江夏の継投で阪急に足止めをくわせた(7-3)。

阪急は山田と村田が先発した24日のロッテ戦に8-0で勝って、2位南海に5ゲームの差をつけて前期優勝を決めた。山田はここまで13勝3敗。

前期を終わって、パリーグの打撃10傑には、南海から門田(.301)、藤原(.287)、野村(.278)の3人が名を連ね、打点では門田が42でリーグトップだった。

パリーグの夜間試合がテレビ中継されるなどということはまずなかった当時、ラジオ大阪の「南海ナイター」を聴いた。この中継さえない日は、「スポーツニッポン」の電話による試合経過お知らせサービス。何度も電話(京都から大阪への市外通話)で経過を確認したものだった。そして、夜の10時前に数分間だけテレビ放送されるだけだった「プロ野球速報」に頼っていた当日の試合結果は、この年から佐々木信也(月~金)と土居まさる(土日)の「プロ野球ニュース」(フジテレビ系)が始まり、テレビでの野球報道が一変した。

「南海ナイター」では毎回クイズがあって、当選すると寄せ書きサインボールが賞品だった。この年だったと思うが、応募すると、何とサインボールが送られてきたではないか!

ただ、ラジオ大阪は南海が昭和53(1978)年に低迷期に入ると、さっさと「近鉄バファローズアワー」にしてしまったが……。

(写真=5月20日対日本ハム(静岡):またも江夏で惜敗。6月20日対阪急(大阪):優勝目前の阪急に3連勝(野村)。同24日阪急Xロッテ(西宮):阪急が前期優勝を決める。ラジオ大阪「南海ナイター」から送られてきたサインボール(左上から「Hawks」の印字、野村、門田、山内、桜井)。フジテレビ系「プロ野球ニュース」。著作権は著作権者に帰属します。)

2008年4月12日土曜日

昭和51年前期開幕、「Stop the Braves!」

昭和51(1976)年の開幕前、優勝候補に挙げられていたのは阪急とロッテ。

4月3日の平和台球場での開幕戦(対太平洋クラブ)が雨で流れた翌日、南海ホークスはシーズン初戦に山内新一を先発させる。佐藤道郎が継いだ後の9回裏1死走者1人の場面で、江夏豊のパリーグ公式戦初登板となった。若菜嘉晴と白仁天の2人を打ち取ってパリーグ初セーブ。4-3で逃げ切った。5日は中山孝一から佐藤のリレーで3-2で連日の1点差勝ち。

江夏の初先発は本拠地開幕戦となる4月7日の近鉄戦。8回までヒット2本に抑えるも、9回にヒットとフォアボールで1死1・2塁となった場面で佐藤と交代。完投は逃したが9三振を奪って初勝利を挙げた。「『任せるよ』と声をかけてマウンドを降りた。いさぎよくバトンタッチされた佐藤は胸がジンとしたという」。近鉄の小川亨は、「こっちが、打ち気に出ると、カーブではずすテクニックには驚いた。速さよりもあの巧さに手も足も出なかった」。(「左腕の誇り」)

開幕3連勝でスタートしたホークスは前期第2節が修了した時点で5勝2敗。当時のパリーグはこんな成績では首位になれない。阪急は4日のダブルヘッダー第2戦を落としたものの、同時点で7勝1敗。

第3節。藤田学登場。13日の阪急戦(西京極)で江夏を継いで5回から登板し、4安打無失点に抑えて1軍デビューし、18日(対近鉄、藤井寺)には先発で6回6安打3失点だった。24日の対日本ハム(後楽園)では先発江夏を4回途中からリリーフして初勝利(14-8)。この節が終わってパリーグの首位打者は.364の柏原純一だった。

13日から17日まで4連敗(うち江夏が2敗)するものの、23~25日の日本ハム戦(後楽園)に3連勝して、ここまで10勝7敗。首位阪急とは2ゲーム差だった。

学校で小生は授業そっちのけで、自分の机に「Stop the Braves!」と書き、その下に勝率とゲーム差を計算して毎日、毎日書き込んでいた。

5月3日の太平洋クラブ戦(大阪)に山内が完投して12-3と大勝し、5日のロッテ戦(大阪)は江夏と村田が先発して1-1のまま延長にもつれこむ。11回裏2死からサヨナラ勝ち。江夏は11回を3安打に抑えて完投した。6日は3-1でリードしていた6回に連続スクイズを決め、6-1で快勝。ホークスは、9日の近鉄戦(日生)まで5連勝。一時は首位に立つ。

この年、「江夏が投げると打てない南海」と何度も繰り返して言われた。第7節に入った11日の大阪球場での対阪急前期第4回戦はその典型だろう。この試合で江夏は阪急打線を5安打1点に抑えて完投。ただ、阪急先発の戸田善紀がノーヒッター達成ではどうしようもない。

第7節16日の対ロッテ・ダブルヘッダー(川崎)の第1試合。7回1/3で3安打しか打たれていない江夏をまたもや援護できず、0-0の時間切れ引き分け。しかし第2試合を松原が完投して3勝目を挙げた。

この節を終えて、阪急が20勝11敗1分け、南海は20勝14敗1分け。ゲーム差はまだ1.5ゲームだったが……。

(写真=4月4日対太平洋クラブ(平和台):江夏が初登板で初セーブ。同7日対近鉄(大阪):江夏1勝目X2。同11日対日本ハム(大阪):D・ビュフォード第1号3ラン。同18日対近鉄(藤井寺):藤田学が初先発(一塁手柏原、走者島本講平)。同日ビュフォード2号3ラン。23日対日本ハム(後楽園):柏原が9回に逆転3ラン。5月2日「腹番号」太平洋クラブとのダブルヘッダー(大阪):第1試合前のビュフォードと片平晋作(後方は桜井輝秀)。第1試合9回表2死で打者W・ジェナス。3安打完封勝利の中山(2勝2敗)。NHK実況解説席に陣取っておられる鶴岡一人親分(元老?……)。第2試合でのジェナス本塁突入と鬼頭政一監督の抗議。野村。本塁打(第3号)を放ってタッチするビュフォードとD・ブレイザー・コーチ(「75」は山本忠夫コーチ)。ベンチ前のビュフォード(「3」は定岡智秋、「25」は片平)。1塁側スタンド(手前のおじさんのすぐ左側で紺色の帽子をかぶっているのは友人、右側の「後頭部」だけ見えている少年は小生(「1977年南海ホークス・ファンブック」から))、同日の大阪球場入場券。同11日対阪急(大阪):「江夏が投げると打てない……」戸田にノーヒッターを喫す(「1」は桜井)。著作権は著作権者に帰属します。)

2008年4月9日水曜日

江夏豊入団(その2)-「知りませんでした。ワッハッハ」

トレードについて江夏の自叙伝『左腕の誇り』(波多野勝構成)によると、 長田陸夫球団社長は江夏のトレードについて聞かれると、「江夏はわからん話の男でね。チームの統制を乱すようなことさえしなければ、将来はコーチにも監督にもなれる男なのだが。だからよそのメシを食ってみるもの本人のためだと思って決めたわけです」と語った……。 吉田監督は「フロントが決めたことで、私は知らなかった」と弁明したが、常識的に見て無理な説明だった。実際、吉田は知っていた。その著書『海を渡った牛若丸』によると、昭和50年の暮れに、ついに江夏のトレードを決断したとある。以下、吉田の本によれば、そのとき長田社長は吉田に「きみは、江夏のトレード話は知らないことにしておこうや」と言った。吉田は、現場の最高の責任者がエースのトレード話にまったく関与していなかったというのはおかしいと意見を述べたが、長田社長は「人事のことだからフロントでやる」と言ったため、つい同意してしまったという。だが、その話もまた事実ではなかった。 僕らの監督だったわけですが、トレードの一件を話すときだけは、どうしても「吉田さん」とは言えない。本当は「吉田義男」と呼び捨てにしたい気持ちですけど、ここは「吉田さん」でいきましょう。 あとでトレードの経緯を野村さんから聞いたんですが、50年の夏に、吉田さんのほうから野村さんに「江夏をほしくないか」とコンタクトをとったんだそうです……。そのときは吉田さんの立場上、自分が先に動いたことを知られたくなくて、自分は知らないことにしてくれと球団にお願いしたわけです。で、トレードが決まったとき、マスコミが吉田さんにインタビューに行くと、「知りませんでした。ワッハッハ」で終わった。 僕の前の嫁さんの実家は、「常盤」という奈良では老舗の割烹旅館だったんですが……吉田さんはそこの女将つまり僕の義母に向かって「トレードは絶対にない」と断言していたらしい。だから、のちに吉田さんが本当のことを白状するのを聞いたときは我慢ならなかった。僕をトレードに出すのは結構だけれど、親まで騙すことはないだろうという気持ちがありました。 昭和60年に阪神が優勝したとき、「デイリースポーツ」から吉田さんと対談するよう頼まれたことがあります。吉田さんはそのとき、約束の時間よりも少し早めに行った僕よりさらに早く来ていて、僕を見るなり手を差し延べて、開口一番「あのときは悪かった」と言った。トレードのときからだいぶ時間もたっていたし、僕はそのことを思い出したくなかったんですが、騙したほうには罪の意識があって、いつまでも覚えているんでしょうね。

(写真=3月13日対巨人オープン戦(大阪):江夏X5(「5」はD・ジョンソン、「1」は王貞治)。ジョンソン・サインボール。当時の「美津濃アドバイザリー・スタッフ」(後列左から鈴木孝政、加藤秀司、星野仙一、堀内恒夫、長池徳二、三村敏夫、山田久志、東尾修。前列左から弘田澄男、大矢明彦、谷沢健一、高田繁、衣笠祥雄、山口高志、土井正三、福本豊)。著作権は著作権者に帰属します。)

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江夏豊入団(その1)-「江夏いりまへんか?大投手、江夏でんがな」

「江夏いりまへんか?」 阪神の吉田監督から突然の電話があったのは1975年のシーズン終盤だった。 「えっ、江夏って2人いたっけ阪神に」 「いや、いや、大投手、江夏でんがな」 以上は日本経済新聞の「私の履歴書」(2006年6月)にシダックス監督だった野村克也が書いた一節。 「野球は南海」と思わせた「ある出来事」とは、江夏豊の南海ホークスへの移籍である。阪神からは江夏の他に望月充が入団してきた。一方、南海からは、エース江本孟紀、島野育夫、池内豊、長谷川勉が移っていった。さらに南海には野崎恒夫との交換トレードで、太平洋クラブから「あのビュフォード」が加入した。 江夏は、「なんで、このワシがあんな連中と交換されなきゃあならんのや」「南海の江本とワシがトレードの軸やて。そんなアホな。江本なんていうピッチャー、ワシは知らんで。一緒にされてたまるか」と言っていたらしい。(別冊週刊ベースボール昭和63(1988)年冬季号「さらば!南海ホークス」) 森昌彦(現祇晶)との対談(週刊ベースボール昭和51(1976)年3月29日号)では、 森「……昨年の暮れに、ほんとうにトレードされるんじゃないかというふうな気持ちはあったの、多少なりとも」 江夏「毎年あったんですよ、この2、3年は」 森「それはまた、阪神のエースとしてはおかしな話やね」 江夏「ええ、だからね、去年の12月24日ですか。ぼくがちょうど仕事で東京にいるときですね、トレードのことが新聞に載ったですよ。それを見てね、一瞬クソーッと思ったですけどね、また内心何か、安心いうたらおかしいけれど、ああ、決まったかいうようなあれで、ものすごく冷静でいられたんです……」 森「ただその通告されたというよりも、その前がぼくは問題だと思うんだな」 江夏「……やり方があると思うんですよ。……ぼくらをだますのはけっこうですよ、ぼくとかぼくの嫁はんとかをね。でも、その親をだますいうのは、人間的にぼくは許されないことだと思うんです」 江夏「……はっきりと(長田陸夫球団)社長が家へ電話してるわけですよ。江夏は絶対にトレードしないと」 江夏「……新聞に載ったあと、26日くらいですかね。仲人の家にもそういう連絡がいっているわけですよ。こんどは(吉田義男)監督から。そういうことはぼくは人間として恥ずかしい行為だなと思ってね、かえってそういう人を哀れに思ったですよ……」 江夏「一番ガックリしたのは、南海へ入って野村監督といろいろ話し合ったんですわ。そうしたら、このトレード話は10月の終わりくらいからあったというわけですわ」 森「なるほど」 江夏「そういうことを、聞けば聞くほど、何ときたない人間かと思うたですね……」と、トレードのいきさつについて話している。

 (写真=昭和51(1976)年1月28日ホテル南海での入団発表。和歌山県田辺市での春季キャンプ。週刊ベースボール3月29日号表紙。主力投手5人(写真=左から江夏、松原、山内、佐藤、中山)。「1976年南海ホークス・ファンブック」表紙。著作権は著作権者に帰属します。)

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2008年4月8日火曜日

あぶさん

「オトナ向け」マンガ雑誌「ビッグコミック・オリジナル」(小学館)に連載の「あぶさん」を知ったのは昭和51(1976)年だった。

「野球は南海」の気持ちは、前年シーズンオフの「ある出来事」で固まっていた。「あぶさん」には、実在のチームや選手が登場し、「男どアホウ甲子園」や「野球狂の詩」と同じく、どの球場の絵も詳細まで本物だった。(ただ、ホーム用ユニフォームに使われていた独特の書体の「Hawks」を描くことには苦労が見え、うまく描けているのは少ない。)当時、すでに単行本は第8巻まで発売されていた。「オトナのマンガ」を買うのには少々勇気が必要だったが、全巻揃えるようになった。

主人公の「景浦安武」は高校生時代、夏の甲子園予選でホームランを打って3塁を回ったところでヘルメットに嘔吐。飲酒がばれる。高校卒業後に酒浸りの彼を「岩田鉄五郎」が救い、南海ホークス入団が決まる。バットのグリップに「あたりめ」を巻いて打席に入るなど、破天荒な人物だった。若い頃のあぶさんは、ミナミのキャバレーにも通っていたし、「大虎」のひとり娘サチ子とは別にガールフレンドもいた。

ある雑誌で、作者の水島新司氏が「あぶさんとサチ子を神宮球場で結婚させて連載を終わらせる」計画を明かしていたと記憶している。ただ、この計画は変更される。南海ホークスを大きく揺るがせた昭和52(1977)年9月に起こった「もうひとつの出来事」もその理由だったのではないかと思う。

破天荒で毒のあるあぶさんも、年齢を重ねるにつれてチームの先輩格となり、その荒々しさが失われていった。特に結婚後は野球マンガから無害な家族マンガに変質し、「主人公が野球選手の『サザエさん』」になってしまった。

(写真=昭和50(1975)年の主力選手サイン色紙。大阪球場と言えば道頓堀のサウナ「ニュールビア」招待券が当たるラッキーカード!その他ラッキーカード2種(年代不明)。南海ホークス子供の会の特典「みさき公園さやま遊園」の招待券。「野球大会」と「サイン会」の案内状。ファン感謝デーの案内状。スタンドから見たファン感謝デーの様子。昭和51(1976)年年賀状(差出人は「南海ホークス子供の会会長 野村克也」。そして江本に島野のサインも……)、同年の主力選手サイン色紙。「安眠枕マグピロー」(ノムラさんは使ってるかな?)。著作権は著作権者に帰属します。)