2008年5月28日水曜日

7年ぶりの7連勝。完投6試合

ホークスの昭和52(1977)年開幕戦は4月2日。前年他チームを寄せつけず圧倒的な強さを見せた阪急との試合(西宮)だった。開幕投手には前年20勝を挙げ、チームの勝ち頭だった山内を選ぶ一方、阪急は当然ながら前年26勝で最多勝の山田を立てた。南海打線は3番門田、4番にホプキンス、野村は5番に下がるという陣容。この年のビジター用に使用した緑のユニフォームは、胸の「NANKAI」、背番号、その上の名前が白字で黒の縁取り、首周りは丸く黄-白-黄、袖とベルトラインは赤-白-黄というものだった。「派手好きな人」の発案だろう。 この一戦、5回に藤原の安打で南海が先制するが、8回に阪急が同点に追いつく。10回表、定岡の1号で勝ち越した南海だったが、その裏に加藤秀司がサヨナラ安打。惜しい開幕戦を落とした。 

翌3日はダブルヘッダーが組まれた。第1試合は新人王・藤田が先発して完投。南海打線は阪急先発の山口を打ち崩し、藤原が3安打3打点と活躍した他、ホプキンスが2安打1打点、野村は1号を放った。7-2の快勝だった。さらに第2試合で広島から移籍した金城を早くも先発させ、打線は阪急先発の今井を1回2/3でKO。藤原が4安打2打点、門田が1号を含む3安打4打点と金城を援護した。金城は阪急を4回に浴びた長池の本塁打による1点に抑え、完投で移籍初勝利を飾った(9-1)。この試合には、めずらしく西宮球場に4万2000人の観衆が集まった。 開幕戦こそ落としたものの、優勝チームを相手に幸先のいいスタートだった。そしてこの勢いはしばらく衰えない。

 第2節(5~11日)は、後楽園での対日本ハム3連戦の後、移動日なしで帰阪して大阪で8、10、11日とロッテと3戦を行った。5日、先発したのは広島から移籍の佐伯和司と佐々木宏一郎。初回裏にB・ミッチェルのタイムリーで先制され、0-1のままで迎えた8回表、ホークスは野村の2号で同点にすると、続くピアースもヒットで出塁し(代走阪田隆)、柏原が日本ハム3人目の高橋一三から逆転2ランを放ち試合を決めた。シーズン初登板だった佐々木は完投勝利。 6日。開幕戦で勝利を逃した山内が先発した。日本ハムは高橋直樹。2回、ピアースの1号3ランで主導権を握る。4回に1点差に迫られたが、8回に一挙4点を奪う一方、山内はその後追加点を許さず完投でこのシーズン初勝利。7日はまた柏原が一発で試合を決めた。0-1の4回表、日本ハム先発の杉田久雄から逆転3ラン、さらに7回にもソロを放ち、この日は4打点。先発藤田は日本ハム打線を7安打3点に抑え、連続完投で2勝目を挙げた。

 開幕2戦目からすべて完投でここまで5勝1敗。本拠地開幕戦となった8日の対ロッテ戦は、金城の先発だったが、交通事故の後遺症で彼の視力が弱いことは周知のとおり。ロッテ金田監督が試合前にバッテリー間の(金城用?)砂の色に文句をつけたことを、翌日のスポーツニッポン紙が報じていた。試合は、初回に南海が1点を先制して始まった。ロッテは先発の水谷則博が7回に1点を取られたものの、4回と6回に3点づつを奪い勝利をほぼ手中にしていた。(南海に3つの失策があり、金城の自責点は1。)9回裏を迎えたときのスコアは6-2。ホークスの連勝がストップすると思われた最終回、まずピアースの二塁打と柏原のヒットで無死1、3塁となったところで、ロッテは水谷をあきらめて村田を投入する。エース・村田から定岡が左中間へ二塁打を放ってまず2点。桜井の代打広瀬、そして藤原の連打で1点差。無死2、3塁で、村田からS・マクナリティ(登録名はスティーブ)へと投手交代。新井、門田が凡退して2死となり、これで終わりと思ったら、ロッテは4番ホプキンスを敬遠して満塁策をとり、野村との勝負を決める。野村が四球で同点、さらにピアースの代走に出た堀井の代打林も四球を選び、三塁走者の藤原がサヨナラ押し出しのホームを踏んで勝利した。 勢いに乗るホークスは10日も見事に逆転してみせ、7年ぶりの7連勝を飾る。先発佐々木が1死もとれずに降板。代わった星野からも得点し、ロッテは初回に4点を奪う。ところがロッテ先発の小川清一も1死をとれずにマウンドを降り、ホークスは継いだ安木祥二、八木沢、成重も打ち込んで合計7安打で5点を奪いあっさり逆転した。門田が二塁打3本を含む4安打3打点、ホプキンス1号3ラン、盗塁5個(藤原、河埜、柏原X2、定岡)で完勝した(12-5)。初回無死でリリーフした星野はそのまま投げ切った。

 11日、連勝が止まる。先発して完投した山内が初回、有藤にソロ、3回にはL・リーに3ランを浴び、2敗目を喫した。打線は村田に6安打1点に抑えられた。 あれ、オープン戦で使用していたホーム用のユニフォームが変更されているではないか。ラインのなかった袖に緑-黄-赤の3本線、首周りは緑で黒の縁取り、また赤色だった背番号の上の名前が緑になっていた。誰とは言わぬが、よほど「派手好きな人」がデザインしたと思われる。 

(写真=開幕シリーズ(西宮)での野村。同試合前の3塁側ベンチ前。4月7日対日本ハム(後楽園)柏原が杉田から逆転3ラン。8日対ロッテ戦(大阪)の試合前ダイヤモンドグラブ賞の表彰を受ける藤原(左は森本球団代表)。同日サヨナラ押し出しのホームを踏む藤原、「12」は広瀬、その右は新井、右端は定岡。著作権は著作権者に帰属します。)

(Facebook:「あの頃の南海ホークス」で「はばたけホークス」(PDF版)を販売しています)

2008年5月27日火曜日

昭和52年シーズン開幕に向けて

前後期をともに2位で終えたホークスは、123試合に出場したものの打率.239に終わったビュフォードとロブソン(37試合、打率.209)を解雇した。新たにJ・ピアースを獲得するとともに、12月になって、アメリカでの医大進学のために帰国するとされていたG・ホプキンスの入団を決める。ホプキンスは昭和50(1975)年に全130試合に出場。打率は.256ながら打点90で広島の初優勝に貢献し、翌年は打率.329をマークしていた。投手では、松原と門田純良を放出して広島から金城基泰を獲得した。

昭和52(1977)年の春季キャンプ(和歌山県田辺市)での話題のひとつは、映画「野球狂の詩」の撮影だった。主演は水原勇気役の木之内みどり。

ホークスは前年、ホーム用に緑-黄-緑のベルトライン以外にはまったくラインのないVネックのユニフォームを採用し、昭和49(1974)年から使用していたものと併用していたが、このキャンプでまたユニフォームを変え、オープン戦を通じて使った。Vネックが丸首に変り、ベルトラインは緑-黄-赤となった。背中には赤のローマ字で背番号の上に選手名が記された。

(写真=左から水島新司、野村、木之内みどり(田辺キャンプ)。江夏(同)。「はばたけホークス」第2号表紙:3月8日対中日オープン戦(大阪8-1)、ホームインするのは林俊弘、その後ろは黒田正宏、捕手は木俣達彦(中日))。12日対巨人オープン戦(大阪3-3):先発メンバーは、南海=藤原(三)新井(中)ピアース(左)門田(右)柏原(一)片平(指)桜井(ニ)定岡(遊)黒田(捕)藤田(投)、巨人=柴田(中)土井(ニ)張本(左)王(一)末次(右)高田(三)吉田(捕)河埜(遊)小林(投)。13日対阪神オープン戦(大阪5-2):「スリコギ(ツチノコ)バット」の本家本元・藤原。著作権は著作権者に帰属します。)

2008年5月19日月曜日

阪急が前後期完全優勝

じりじり追い上げて首位に立った阪急は、14~17日、そして19日の対近鉄戦(いずれも西宮)に全勝し、前節から8連勝する。14、15日は山口がリリーフでともに自責点0。16日は2回までに近鉄先発の鈴木から4点を奪い、山田が完投で24勝目を挙げる。翌日は2回にジョーンズの36号などで2点を失うが、リリーフした山口がその後得点を許さず、7-2の逆転勝ち。さらに、19日は先発白石を6回から手堅く山田が継投し、5-1と完勝する。

あっという間に阪急に首位をさらわれた南海は、この節を4勝1敗で終わる。14日(大阪)は佐藤が日本ハム相手に完封(7-0)して成績を9勝2敗とし、ビュフォードが3打数3安打3打点と大当たり。15日は藤田が完投で8勝目(4-3)を挙げる。翌日は中山から松原、江夏とつなぎ4-3。17日のこれも対日本ハム戦は、定岡が4回に放った一打による2点を先発山内が守り、そのまま完封して19勝目。19日の対ロッテ戦(仙台)は、またもや村田にしてやられる(4-2)。

ロッテは15~17日の太平洋クラブとの4連戦(仙台)で2勝2敗。

第12節を終わって、首位阪急と2位南海のゲーム差は1.5に広がった。個人成績では首位打者争いがおもしろい。太平洋クラブの吉岡が.3039、2位門田がわずか3毛差で追う展開。3位には.295の藤原がつけていた。また、新人王は8勝の藤田と9勝の古賀(太平洋クラブ)の争い。

残り試合数が少なくなった第13節(21~27日)を、南海は21日(ダブルヘッダー)、22日と仙台で3位ロッテとの3連戦で開始。強行日程で、この節8試合を行う。21日のダブルヘッダーの第2試合こそ八木沢に完投され落としたものの、第1試合は山内が6回まで山崎裕之のソロによる1点に押さえ、その後を佐藤、江夏とつないで2-1で勝利した。山内はこれで20勝に到達した。22日(対ロッテ最終戦)は初回先頭打者の藤原が村田から8号ソロを放ち、藤田が村田に投げ勝って完封(1-0)し、「スミ1」勝ちする。

24日の対近鉄戦(大阪)は、2回に1点を先制し、6回まで佐藤が近鉄打線を0点に抑えるものの、7回に3点、9回に2点を奪われ敗れる。25日の対阪急ダブルヘッダー(大阪)は、山内と山田が先発する。3失策も響いて、山田に25勝目を与えて連敗する。第2試合は、天敵とも言える戸田から3回までに3点を奪い、松原から江夏への継投で阪急打線を完封する。

26日は移動日なしで対日本ハム戦(後楽園)。先発藤田が2-0のリードを守りきれず3-4で敗れる(9勝3敗)。翌27日は中山が日本ハム相手に11-3で完投(12勝10敗)。この節の8戦を4勝4敗と何とか5割で終えたが、この節わずか4試合の阪急は余裕の2勝2敗だった。

28日の平和台……。阪急は足立、太平洋クラブは古賀が先発する。初回に先制したものの、古賀から阪急は追加点が取れない。それどころか6回に土井正博のタイムリーで2点を奪われ逆転を許す。9回表、長池が四球で出塁した後、マルカーノが凡退。しかし、続くウィリアムスが右中間へ3塁打を放ち同点。森本潔に代わって打席に立った高井が初球をレフトへ……。逆転した1点のリードを山口が守った。

そして30日。京都西京極球場での阪急X南海後期12回戦。この試合に勝てば前後期完全優勝が決まる阪急は山田を、一方、南海は松原を先発させる。2回にウィリアムスの15号ソロで阪急が先制するも、南海は5回、柏原の15号でタイに。せっかく同点にしたのもつかの間、阪急はその裏に加藤秀が28号2ランを放ち、7回と8回に追加点を挙げる。ホークスは松原から、藤田、江夏、佐藤と主力投手を繰り出したが5-2で敗れ、目前で阪急の優勝を見ることになった。

阪急が前後期完全優勝を達成したこの年、ホークスは善戦したが、通年の成績は71勝56敗(.559)で阪急とは9ゲームの差がついた。

個人成績で見ると、打撃10傑に全130試合に出場した藤原(2位)と門田(3位)が入った。また藤原の盗塁数は50個。62個だった福本(阪急)がいなければ楽々と盗塁王になっていた。ちなみにセリーグの盗塁王は31個の衣笠祥雄(広島)だった。

投手では、佐藤が16セーブで最多セーブ賞を獲得したほか、山内は20勝13敗。藤田が11勝3敗(前期1勝1敗、後期10勝2敗)で新人王に輝いた。また、3人で防御率の2位(藤田=1.98)、3位(佐藤=2.25)、4位(山内=2.28)を占めた。防御率が2点を超えない新人王!6勝12敗と期待通りの活躍ができなかった江夏だったが、9セーブを挙げ、リリーフ転向への流れが見えた。防御率は3点に満たない2.98で、「江夏が投げると打てない南海」を証明している。

チーム全体の打率は、.2585で、前後期ともに最下位に終わった太平洋クラブに3毛及ばず2位。一方、チーム投手成績は、2.91でリーグのトップだった。

ベストナインには野村(捕手=19回目)、藤原(三塁=初)、門田(外野=2回目)が、またダイヤモンドグラブ賞には藤原(三塁=初)が選ばれた。

セリーグとの人気が今ほど拮抗していなかった当時、パリーグの観客動員は悲惨なものだった。年間88万1000人を集めた日本ハムの1試合平均が1万3600人(前年比69%増)。南海ホークスは好成績を反映して前年比29%増だったが、年間の入場者数は55万4000人で、1試合平均では8500人にすぎなかった。セリーグで観客数が最も多かったのは巨人で、年間294万3000人(1試合平均4万5277人)。この1チームだけでパリーグの総入場者数334万4600人の約88%を記録している。

(写真=首位打者を争う太平洋クラブの吉岡悟と門田。9月30日阪急X南海後期第12回戦(西京極):敗戦濃厚な南海(手前「3」は阪急・長池、藤原、桜井、野村、柏原)。同日前後期完全優勝を果たした上田利治監督、その右は山口高志。著作権は著作権者に帰属します。)

諜報戦と「Thinking Baseball」

サイン盗みとシンキングベースボール。『月見草の唄 野村克也物語』から引用する。「阪急への仕返しが始まりだった。ウチの投手がいくら頑張っても、サインを盗まれてポカスカ打たれる。いっそのこと、ウチもやろうってね。ところが、西鉄がすでに三原(脩監督)さんの時代(1950年代)からやっていたと聞いて、驚いた記憶がある」 「……ある南海生え抜きのOBはいう。 『科学的といえばそれまでだが、ボクはサイン盗むの、スポーツマンライクやないと思う。スポーツは体力と体力がぶつかり合うもの。絶えず相手のスキにつけ込もうとする野村の野球は、ボクはいややった』」 「野村が監督を解任されたあと、南海は“サイン盗み”をピタリとやめたという」。 「南海ホークス四十年史」は、「ややサイン盗みの野球に走った面があったのではあるまいか。もっと、ファンが望むスリルのある野球、楽しいゲーム、後継者の育成、それらに徹していたなら、あのような苦汁をなめずにすんだのではなかったか」とし、その後に「これからの活躍を祈りたい」を付け加えている。 諜報戦については、門田隆将の『甲子園への遺言 伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯』にも詳しく述べられている。昔読んだ『敵は我にあり』『続敵は我にあり』『背番号なき現役』(いずれも野村克也著)にも触れられていたはず。

記憶にあるのは、XX内野手。彼は、球種を教えてもらわないと打てなかったらしい、逆に広瀬は「球種がわかったら打てない」と言っていたそうだ。 ……各球団とも、前半、中盤、後半とサインの方式を変えるのは当たり前、1イニングごとに変えていくチームも珍しくなかった。 では、南海はどうだったか。 なんと、南海は、サインの方式を“一球ごと”に変えていた。藤原満は、そんな諜報戦のただ中での野球をこう回顧する。 「サインが盗まれているのが前提ですから、一球ごとにサインを変えるのです。やり方は、キャッチャーが出すサインの何番目が本当のサインなのか、そのたびに変えればいいんです……」 では、次は何番目のサインだ、というのをどうバッテリーは決めるのか。 「それは、別の人間がサインを出すのです。本当のサインが何番目かを決めるサインなので、“順番”の番をとって“バンテー”と呼んでいました……。 南海では、サードの私が出していました。一球ごとに、私がグローブを外したり、ヒザに手をやったりするわけです。その私の動作によって何番目に出すサインが本当のサインなのかを、あらかじめ決めてあり、バッテリーが私を見て、それを確認するのです。それに従って、キャッチャーは、ピッチャーにサインを出していました」(『甲子園への遺言』) 藤原はまた、シンキングベースボールの高度さについて、「……野村さんが、これからは3番、4番だけが1000万プレーヤーやないぞ。巨人の土井のように2割5分でも、1000万プレーヤーになれるんや、といっていました。たとえアウトになっても、1、2番がセカンド方向にゴロを打ってランナーを進めると、“ウォー”とベンチ全体が喜ぶような雰囲気になっていました」 そんな中で藤原は、当時のセ・リーグの野球が次第に子供の野球のように感じられてきたという。 

「ピッチャーのクセを見るのが習慣になっていましたから、無警戒なセ・リーグの野球は、屁みたいに感じましたよ。オールスターでも、キャッチャーのサインは見放題だったし、ピッチャーのグローブの中まで見ることができましたね。 ……とにかくスキだらけでした。なんでそんなに走れるのか、なぜモーションが盗めるのかと、よく聞かれましたが、セのピッチャーはスキだらけでしたからやりやすかったですよ」。(同) 江本が阪神に移籍して、そのレベルの低さに驚愕したと言うのもうなずける。 

(写真=D・ブレイザー(昭和44(1969)年頃)。野村とブレイザー(昭和45(1970)年頃)。ブレイザー(1975年「南海ホークスファンブック」から)。ブレイザー(同)。高畠導宏打撃コーチ(1977年「南海ホークスファンブック」から)。著作権は著作権者に帰属します)

(Facebook:「あの頃の南海ホークス」で「はばたけホークス」(PDF版)を販売しています)

2008年5月12日月曜日

大詰めの後期。阪急が単独首位に

南海、ロッテ、阪急が3ゲーム差で迎えた第10節。南海は9月2日の対ロッテ戦(仙台)で、村田に5安打完封を許してしまう。

やはり迫ってきた阪急は、8月31日から対太平洋クラブとの3連戦に3連勝。初戦の西宮で、先発戸田が打ち込まれ、白石静男をリリーフに、さらに3回途中から山田(6回2/3)まで投入し、13-6で乱打戦に勝利する。第2戦は山口が3-1で完投。西京極で行われた第3戦は、第1戦と同様、初回に3点を奪われるが、足立が初戦の山田と同じく6回2/3を投げるロング・リリーフで6-4。

5、6日はロッテX阪急が仙台で対戦。5日のダブルヘッダー第1戦はロッテ成田、阪急山口が先発した。ロッテは初回に2点を先制するものの、2回表にすぐに同点にされる。八木沢、三井とつないだロッテは、8回に飯塚佳寛のタイムリーで試合を決めた。第2戦は、阪急が2回までに金田留広と成重春生から4点を奪い、戸田から山田への継投で勝つ、山田は21勝目。ホークスは4日、日生でのダブルヘッダー第1試合に4-7で近鉄に敗れる。第2試合は中山が6安打を打たれながらも完封(1-0)したが、山内と鈴木の投げあいとなった5日(藤井寺)の後期12回戦に惜敗(2-3)。この時点で首位に立ったロッテは翌6日、村田がまたもや完投(5-2)。ホークスとしては、近鉄にここで負け越したことが悔やまれる。首位ロッテから3位阪急までのゲーム差はわずか2.5ゲーム。

前節首位に立ったロッテは7日からの第11節、仙台に近鉄を迎える。初戦、近鉄・柳田豊がロッテ打線を1点に抑えた。翌8日は8安打を許したが三井が、また10日の対日本ハム戦(後楽園)では村田が、それぞれ完投して連勝。村田は9年目で初の20勝目を挙げた。しかし、11日は2-3、12日は2-5と連敗してしまう。

2位南海はこの節、7日の対太平洋クラブ戦(大阪)と11日の対阪急戦(大阪)のみ。7日は佐藤が完投し、打線も爆発した。野村とビュフォードがともにが4打数2安打3打点、柏原が3打数2安打2打点と、10-2と圧勝した。11日は山内と山田が先発。山内は初回、2回に加藤秀と福本に本塁打を浴びて2点づつ奪われ、早々と降板。その後の阪急打線を藤田、江夏が抑えきっただけに惜しい1戦を落とした。山田は23勝目。

そして阪急。7日の対日本ハム戦で今井がプロ入り6年目で初完封(3-0)を果たし、8日は足立から山田への継投で連勝(5-4)した。11日は前述の通り、山田が南海相手に完投する。同日、日本ハムにロッテが敗れて同率首位に並び、翌日ロッテが連敗すると、試合のなかった阪急は単独首位に立った。

(写真=9月2日(仙台):南海を5安打完封した村田と金田監督。同日の南海ベンチ(左から河埜、野村、高畠)。同月7日(大阪):太平洋クラブを2点に抑えて完投した「リリーフ・エース」の佐藤と2安打3打点の野村。著作権は著作権者に帰属します。)

2008年5月2日金曜日

後期中盤、首位を維持も三つ巴の様相

10日から(第7節)の対阪急3連戦(大阪)の初戦。ホークスは阪急の6安打を上回る10安打を放ちながら山田久志に0-2で完封される。山田はこれで18勝5敗。2戦目は初回に山口高志から3点を奪い、8回から山内から佐藤へとリレーして4-1で勝つ。後期5回戦となる12日は江夏と足立光宏が先発し、7回まで1-0でリードするも、8回に福本豊が安打で出塁して盗塁(通算550盗塁)。加藤秀司が福本を返して同点にし、10回表に4点を加えて接戦をものにした。江夏は4安打で自責点1でまたも黒星(5勝11敗)となった。

移動日なしの13日は神宮で対日本ハム6回戦。5回に先制点を許したものの、先発藤田は6回と8回に2点づつ、9回にも1点の援護を得て、このまま完投して成績を5勝1敗とした。14日は2-1から松原を継いだ佐藤が打たれ2-4で敗戦。阪急は13勝13敗の勝率5割ながら、しっかり3位に上がってきていた。

第8節(17~23日)はロッテ戦(大阪)で始まった。ここまで16勝8敗の山内と16勝7敗の村田の投手戦は、6回裏に0-0の均衡を野村が破った。翌日は3-2の7回に八木沢荘六を打って5-2と引き離し、6回から登板した佐藤がきっちり抑えて連勝。さらに江夏が先発した第3戦は、藤原が4打数2安打1打点、新井が5打数2安打2打点の他、野村3打数3安打、ビュフォード4打数2安打、定岡3打数2安打など、合計14安打で5-3で勝利し、首位ロッテを追い落とした。5回を投げた江夏は6勝目を挙げた。

20日の太平洋クラブ戦(小倉)では藤田が6回までに14安打を打たれながらも、佐藤のリリーフを得て、東尾修に投げ勝ち、6勝1敗。門田が3打数3安打の2打点、柏原は12号を放った。同じく小倉で行われた22日の試合は4-3と辛勝して、球団創設2500勝目を記録する。中山、松原、佐藤とつなぎ、規定打席に達して首位打者の座をうかがう最後のバッター吉岡悟で江夏。三球三振。

平和台での3戦目は、その江夏が先発した。初回に野村の9号2ランで先制したものの、江夏が2回2/3で5失点で降板する誤算。打線は藤田と新人王を争う古賀正明に野村の2ランと片平のソロ(11号)に抑えられ、17日からの連勝は5でストップした。

「江夏を抑えに」という方針が出来上がりつつあったようだ。

21勝13敗2分けで首位は変わらず、19勝16敗3分けの2位ロッテに2.5ゲーム差をつけた。一方、太平洋クラブ、日本ハムと7連戦を行った阪急。太平洋クラブには2勝1敗と勝ち越したが、日本ハムに1勝2敗1分けで勝率5割(16勝16敗4分け)を何とか維持した。

第9節。24日からの3連戦(西宮)で勝ち越せば、阪急を優勝争いから脱落させることもできたが、逆に負け越してしまう。第1戦は山内が初回、いきなりウィリアムスに3ランを浴びたものの、4回に10人で6点を奪って逆転。2回から立ち直った山内は足立に投げ勝ち、完投で18勝目。また7回には野村が通算5000塁打を達成した。

第2戦に阪急は5月11日の前期4回戦(大阪)でノーヒッターを記録した戸田を先発させる。わずか3安打しか打てず完封され、7回2/3を2点に抑えた松原は5敗目。第3戦は藤田と今井雄太郎が先発。初回に3点を挙げて今井を降板させたが、藤田が3回に1点、5回に加藤秀司に逆転3ランを浴びた後は一方的にやられっぱなし(3-15)。ホークスは今井を継いだ山口から得点できず、定岡の3つなど合計5失策。藤田(5回)と佐藤(2回)の自責点はともに1だった。8回に登板した池之上は4安打2四球でまた炎上した。

28日の近鉄戦(大阪)では鈴木啓示に完封され(1-0)、3連敗。山内が近鉄打線に許したのは、南海打線が鈴木から放った6安打を下回る5安打だった。翌日は、中山、星野、藤田、江夏、佐藤と継投して何とか逃げ切った。この節を終わって、2位ロッテとのゲーム差は1.5に縮まった。

この頃、「はばたけホークス」なる冊子が定価100円で発行を開始した。おそらくスポーツ紙で情報を得たのだろうが、南海球団から直接入手したと思う。発行者は「株式会社南海ホークス」で、「ペンデザインスタディ」が制作編集を行った。

32ページで発行された創刊第1号となる9月号の表紙には、ホームインする藤原と迎える山本コーチの写真が使用されている。藤原が5号、6号を放った7月29日の日本ハム戦(大阪)で撮影したものと思われる。「はばたけホークス」は、試合結果、監督・選手へのインタビュー、座談会の他、(「ペンデザインスタディ」の住所は阪急色がいっぱいの大阪市北区になっているが、)いかにもゴミゴミした大阪ミナミを本拠にするホークスらしく、洗練さへの配慮などまったく感じさせない稚拙なイラスト解説つきの野球教室などを掲載していた。

「9月号」とあるから、毎月発行かと思せたが、実はそうではなかった……。おまけに……。「はばたけホークス」の顛末については後述することにする。

(写真=阪急(美津濃)と巨人(アディダス)を除く全球団が使用し、野村出演のテレビCMもあった「オニツカ・タイガー」の「ゲーリック」スパイク(野村、中村勝広(阪神、現オリックス・バファローズ球団本部長)、高木守道(中日))。8月22日対太平洋クラブ(小倉):江夏が吉岡を三球三振。同23日(平和台):先発江夏が2回2/3で降板(左は松田清コーチ、「19」は野村、右奥は定岡)。入団3年目で一軍昇格を果たした藤田と新人王を争う太平洋クラブ先発の1年目の古賀正明。同24日対阪急(西宮):野村が通算5000塁打を達成。投手時代の池之上(1975年「南海ホークスファンブック」から)。完投で18勝目を挙げた山内と柏原、野村。創刊された「はばたけホークス」9月号の表紙。同誌に掲載された写真(野村、藤原、佐藤、門田、山内、穴吹二軍監督)。著作権は著作権者に帰属します。)

2008年5月1日木曜日

昭和51年オールスター戦

昭和51(1976)年オールスターには、ホークスからファン投票による江夏(投手)、野村(捕手)、定岡(遊撃)の他、監督推薦で山内、佐藤、藤原、門田と、合計7選手が選出された。前年の「赤ヘル」と対比して「グリーン軍団」と呼ばれ、グリーンのヘルメットが何とも目立った。 

7月17日の第1戦(川崎)では、3打数2安打で野村が打撃賞、3打数1安打2打点の藤原が優秀選手賞を獲得した。 18日、後楽園での第2戦初回、門田がセリーグ投手部門ファン投票選出の小林繁(巨人)から先制の2ランを放つ。映像が残っていればいいのに。門田は小林のゆっくりしたフォームにまったくタイミングが合わず、上げて下ろしかけた左足をもう1度上げて打ったホームランだった。 門田はこの試合5打数4安打2打点で殊勲選手賞、さらに藤原が5打数3安打3打点(盗塁1)で打撃賞。

大阪球場で行われた20日の第3戦。何とかしてこの試合を球場で見たかったが、京都に住む中学生にはムリなことだった。この日は、大阪球場の新スコアボードお披露目の日でもあった。上部の時計の左は「世界の時計」、右には「SEIKO」の「(非電光掲示の)後楽園型」で、ボード上部の左右には「アヲハタの缶詰」、両側には縦に「HOYAメガネ」の広告があった。

 パの先発は江夏、セは江本孟紀(阪神)。「ホークスの江夏」が先発だけでも十分興奮というものだが、前年までホークスにいた江本が大阪球場に阪神のユニフォームで登場し、江夏X田淵という対決まで……。 規定の3回を3安打3三振、自責点1で投げきった江本とは対照的に、江夏は安打こそ張本勲(巨人)に打たれた1本だったが、4つの四球を与え、三振は1つも奪えず自責点1。わずか2/3イニングで足立(阪急)にマウンドを譲った。当時の「週刊ベースボール」のグラビアには見開きで、マウンドに江夏、1塁ベースコーチには阪神の吉田義男監督という、今となっては皮肉な写真が掲載されていた。第3戦では門田が敢闘賞を獲得した。 

ファン投票1位選手: パリーグ=(投)江夏(南海)、(捕)野村(南海)、(一)加藤秀(阪急)、(ニ)山崎裕(ロッテ)、(三)有藤(ロッテ)、(遊)定岡(南海)、(外)福本(阪急)、大田(太平洋クラブ)、島本(近鉄) セリーグ=(投)小林(巨人)、(捕)田淵(阪神)、(一)王(巨人)、(ニ)ジョンソン(巨人)、(三)高田(巨人)、(遊)藤田(阪神)、(外)張本(巨人)、末次(巨人)、山本(広島)

 (写真=第2戦(後楽園):門田が小林繁(巨人)から初回に先制2ラン。パ・リーグのベンチ前(「19」は野村)。門田、殊勲選手賞獲得。三塁守備の藤原(走者・谷沢健一(中日))。第3戦(大阪):試合前の野村と張本(巨人)。セレモニー(左から戸田善紀(阪急)、鈴木啓示(近鉄)、東尾修(太平洋クラブ)、村田兆治(ロッテ)、山内新一(南海)、佐藤道郎(南海)、野村収(日本ハム)、野村克也(南海)、有田修三(近鉄)、河村健一郎(阪急)、加藤秀司(阪急)、山崎裕之(ロッテ)、有藤道世(ロッテ)、定岡智秋(南海))。初回張本が江夏から安打、そして得点(捕手野村)。打席の藤原。著作権は著作権者に帰属します。)

(Facebook: 昭和51~52年の南海ホークス)