2022年2月10日木曜日

薄れゆく南海ホークスの記憶

 野村南海時代の最後に、センター新井宏昌、ショート定岡智秋とともにセカンドのレギュラーとなった河埜敬幸は、以後の勝てない南海について、「僕らも『なんでかな』と苦しいばかりだった。野村監督が築き上げたデータに基づく細かい野球が途切れて、大味になっていたのかな……」(毎日新聞2022年1月29日)と言う。彼が思うように、本当に「大味になっていた」のだったなら、広瀬時代に緻密さが途切れ、ブレイザーがそれを復活させようとしたものの、穴吹、杉浦の時代で潰えたということも言えるのかもしれない。また、野村夫妻が共に死去して「三悪人」以外の当時の選手たちの回想がやっと取材に答える形で出てきたのだろうか。

南海ホークスと言えば鶴岡時代がそれを代表するのだと考えるのは間違いだろう。野村南海においては昭和48年のリーグ優勝後も鶴岡野球とは違う種類の野球が進化していたはずで、その成果は昭和51年と52年の成績にはっきりと現れている。野村解任後の低迷について、河埜敬幸の短い証言の他は、藤原満が「『私が引退して強くなれば』と言ってコーチを引き受けましたが、全然強くならなかった…」と述べているのみである(西日本スポーツ2022年1月27日)。

「大天上」に「ダットサン」、ファンブック掲載の写真はピンボケ、また中百舌鳥の団地が背景に写っているなど、洗練無縁にかけては最上級の南海球団が、台湾から高英傑と李来発を獲得したことには先見性が見られ、ブレイザーを監督として招き、コーチとして与那嶺要とバーニー・シュルツを迎えたのはデータ野球の復活に画期的なことではあった。


しかし、監督とコーチがアメリカ人。取材も満足にできずにさほど注目もされず(できず)、彼らの考えがチームに浸透することもなかったのではなかろうか。球団は意思疎通について、無策だったのではなかろうか。他のコーチや選手は頭を抱えたのではなかろうか。一手に責任を負っていたはずの市原稔から、ブレイザーが球団についてどう思っていたのか証言を得たいものだ。

(写真=南海ホークスファンブック1981年、『あぶさん』(「雑草市野球旅」)) 

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