2021年12月26日日曜日

南海監督解任の醜聞も名監督夫妻の美談に

マスコミの無責任さ、無知、そして記憶スパンの短さは驚くべきものだ。

昭和52年の解任原因はすっかり忘れ去られ、堂々とテレビに顔を出すようになっていた夫人であったから、プロ野球担当記者というより一般のマスコミが騒いだ。阪神監督辞任の際は、格好の社会ネタだったのである。

テレビには、『あぶさん』にも球団マネジャーの「スギ」として登場する杉浦正胤氏は、南海監督時代の夫人による口出しに関する報道内容をほぼ認めていたと記憶する。マスコミ報道を追いかけていたわけではないが、彼女の顔をテレビで見るたびに、「南海ホークスを崩壊させた張本人」という思いが沸き上がったものだ。

そして、「解任」も時間が経過すれば、「退任」になり替わることもあるらしい。退任?

ベースボール・マガジン社が発行した『週刊プロ野球セ・パ誕生60年 第4号1977年』(平成21年)には、「野村克也監督、退任!」とある。誤植かと思ったが、他の個所にも「退く」「電撃退任」「退任騒動」と書かれてあるので「退任」としたのは意図的なものだろう。

解任を退任と書き換える遠慮の必要がどこかにあったのだろうか。それとも解任当時の事情を知らない編集者の仕業であろうか。

ちなみに、別冊週刊ベースボール冬季号『さらば!南海ホークス 永久保存版』には、「陽気なホームラン打者、ジョーンズ」とのキャプションが付けられた写真があるが、その写真で笑顔を見せているのはピアースである。当時を知らなくとも、少々の確認作業を行えば、こんな誤りは起こり得ないはずだ。

野村克也が「南海の三悪人」と呼んだうち、後年に江本と門田については野村と同席する場面も報道されることがあったが、江夏に関しては、取材に対して野村を「恩人」と呼びながらも、同席するようなことは皆無だったのではないだろうか。

「古い友だちがみんな野村さんから離れていった」通り、野村とともに南海時代を過ごした者は、野村野球の戦術や戦略を高く評価しながらも、南海時代の経験が当時の選手やコーチたちにとって同じほどの深さで暗い闇となっているのではないか。

令和3年12月11日に開かれた「しのぶ会」を報道した記者のほとんどは、南海ホークスの監督時代の野村克也を知らないのだろう。南海球団の売却が報道された時に、「私は西武OB」だと言った野村克也を知らないのである。おまけに、この「しのぶ会」で飾られていた南海ホークスのユニフォームは野村解任の翌年、昭和53年から採用されたもので、彼はこのユニフォームを着たことはないのである。鶴岡時代への復古のユニフォームである。主催者のいい加減さにあきれ果てる。あのユニフォームの背中には「YAMAUCHI」とあるのではなかろうか?自らの努力で’仕事を見つけられないような息子も気がつかなかったのだろうか。まぁ、知らないんだろうな。こんなユニフォームを飾られて、野村さん、よろこんでいるのかな。

ヤクルトの監督に就任して以降、野村克也物語は美談としてマスコミが扱う対象となっていった。阪神監督を辞任した時の大騒ぎもさっさと忘れ去られ、楽天球団の名監督として扱われるようになる。退任後は3年間だったか、名誉監督の立場になった。「名誉」と名が付く職に期限はないものだが。名誉監督在任中も給料もらってたのかな。楽天球団の名誉監督となるべき人がいるなら、それは野村克也ではなく、困難を承知で初代監督になった田尾安志だろうと思う。

(写真=『あぶさん』第4巻「魔法薬」、その他、著作権は著作権者に帰属します)

(Facebook:「あの頃の南海ホークス」で「はばたけホークス」(PDF版)を販売しています)

2021年12月23日木曜日

「財を残すは下」「でも、まあ、金が残ったからなあ」

野村克也が夫人の行状を原因として監督の座を去ることになるのはこれが最初で最後ではない。2度目の原因となった夫人の行いは脱税という犯罪であり、経歴詐称も暴かれた。知る限り、南海球団が解任前に行ったと言われる夫人の身辺調査の内容が明らかにされることはなかった。詐称したまま国政選挙にまで出馬する厚顔、そして、その詐称に出馬依頼前に気づかず、立候補させた政党の杜撰さに恐れ入るのである。夫人の経歴と人柄については、実弟による『姉 野村沙知代』とケニー野村の『グッバイ・マミー 母・野村沙知代の真実』に詳しい野村は江本、門田、江夏の三人を南海ホークスの「三悪人」と呼んだが、南海球団が消滅した理由について言えば、その根源は野村夫妻にある昭和50

年頃にはすでにチーム内は相当ひどい状態で、「野村ではチームを掌握できない」というのも大げさな話ではなかったようだ。

『南海ホークスがあったころ 野球ファンとパ・リー部の文化史』(永井良和/橋爪紳也、2003年)という南海ホークス、大阪球場、そしてパ・リーグを社会学的な視点でとらえた著作がある。そこには野村解任について、「さまざまな事情か
ら八シーズン目を終える前に解任される」「当時のゴタゴタやメディアが報じたスキャンダルなどについては触れない」とだけ書いている。著作の趣旨には直接関係するものでないことは理解できるが、ともに昭和35年生まれの両著者には、わざと具体的に言及しないことで、あの解任とその後の南海ホークス凋落について本当は二言、三言では足りず、山ほど言いたいことがあって爆発したいのだと主張しているように読めてしまうのだ。

また『左腕の誇り 江夏豊自伝』(波多野勝構成、2001年)には、こんな一節がある:

「野村さんの嫁さんの性格とか、あのときとった行動はマスコミで報道されているとおりです。僕は監督と一緒に南海を辞めたんですが、そのときのことで、古い友だちがみんな野村さんから離れていった。で、僕は新幹線のなかで二時間ぐらい話をして、別れぎわに言ったんです。

『友だちがいないというのは、寂しいですね』

『う-ん、そうやな。でも、まあ、金が残ったからなあ』

しんみりした顔で、野村さんがそう言うのを聞いた瞬間、ああ、この人はそこまで変わってしまったのかと思った。その人その人の考えがあるでしょうし、僕だって、『ゼニ、ゼニ』と思って投げていたことは確かだけれど、僕の金銭感覚とはだいぶ、かけ離れている。残念なのは、前の嫁さんが亡くなったとき、葬式にも行かなかったことです。それは野村さんの意思じゃない。いまの嫁さんが行かせなかったんです」

また、『甲子園への遺言』には、「野村さんはすっかり変わっていました。いろいろなことに疑心暗鬼になる人に変わっていました。かつての野村さんはそんな人じゃなかった。相変わらず、夫人の介入もありましたし……」と高畠導宏がヤクルト時代について語っていたと記述されている。南海、ロッテ、ヤクルトと、野村の懐刀だった高畠である。

『南海ホークスがあったころ』には、野村自身の著書『デッチ人生20年』(1973年)から、「ゼニが人生の第一条件だ」「ゼニがとれなきゃプロじゃない」という文言が引用されている。幼少時代の影響なのだろうか。一方で、野村には「財を残すは下、事を残すは中、人を残すを上」という言葉もあるらしい。何かうすら寒いものを感じてしまい、純粋な野球論だった(残念ながらもう手元にないが)『敵は我にあり』と『背番号なき現役』の後に出版された彼の人生論じみた著作にはまったく関心を持つことはない。同じ話を別の著作で繰り返しているだけのような気がするし、そこには「財を残す」が垣間見えるのである。そして、通算600号本塁打を記録したときに語った「月見草」。南海の監督解任に関する事情を知る人がずいぶん減り、ヤクルト監督として、まったく別の「野村克也」が現れてからは、月見草どころか、彼が自己評価の基準としていた「ひまわり」よりも高くなっていったのである。それもこれも、「嫁さん」が原因だろうが、周囲を失望させながらも、ご本人は「すべてウソでした」と言いながら幸せそうだった。また、マスコミはこの夫婦を美談のネタとして扱っていた。

(写真=『あぶさん』第一巻「鷹一は七歳」/南海ベンチ(上:昭和51年9月2日(仙台)/下:昭和52年(大阪)(撮影日時不明))。著作権は著作権者に帰属します)

(Facebook:「あの頃の南海ホークス」で、もう幻の「はばたけホークス」(PDF版)を販売しています)

2021年12月10日金曜日

「真夜中の電話から、長い一日が始まった」(3)

小生にとって、南海ホークスと野村克也はまさに同義だったのだ。

そして、解任報道から完全沈黙した後の10月5日に大阪のロイヤル・ホテルで開かれた会見での発言である。

「この1週間、いろいろ私なりに考えてまいりましたが、私は鶴岡元老にぶっ飛ばされたと思っております。スポーツの世界に政治があるとは思ってもみませんでした。鶴岡政権の圧力の前に、私は吹っ飛んだわけでございます」

南海球団は1日、広瀬叔功を後継監督とすることをすでに発表しており、野村が南海に残ることは、もはやあり得なかった。半月足らずで監督に就任するいきさつを広瀬が明らかにしたことはないはず。表向きには、野村解任があってから突然の就任が決まったということだろうが、そうではなく、数カ月前から筋書きが決まっていたと疑うことにそれなりの理屈が成立する。南海ホークスは野村を更迭したことで、江夏、柏原に加え、長年にわたって打撃コーチを務めた高畠、そしてヘッドコーチだったブレイザーも失うことになる。長いトンネルに入ったまま、出口の場所さえ見つけることなく、南海ホークスは昭和63年を最後に消滅する。

解任報道後、柏原純一とともに野村と行動をともにする江夏豊は、「週刊サンケイ」(昭和521027日号)での独占手記で、次のように述べている(『甲子園への遺言 伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯』(門田隆将、2005年)から引用):

「そもそも、私が監督の解任をはっきり知ったのは、九月末、スポーツ紙にデカデカと報じられる日の前夜、日本ハムとの試合で東京に遠征していた時だった。

その夜、私は気心の知れている高畠コーチ、純一の三人で鮨を食べ、午前一時ごろホテルに帰ると、東京の監督宅から電話があり、奥さんが真剣な声で『今すぐ来てちょうだい』という。

何だろうかと思いながら、高畠コーチと私が監督宅へ向かうと、沈んだ表情の監督がボソリと、『明日、新聞に載るで』という。

それでも何のことか分からないでいると、監督はつぶやくようにこういった。

『もう、おれ、首やなあ』

そこで初めて事情が飲み込めたわけだ。

そういえば、その日に限って、あるスポーツ紙の大阪のデスクがわざわざ東京まで出てきており、妙な感じはしていたのだが、まさかと驚くと同時に、監督を解任に追いやった背景には、陰謀―何かどす黒い陰湿な動きがあった、と直感しないわけにはいかなかった。“公私混同”に名を借りて、さまざまなデタラメを言い触らした人間を、私にはある程度察しがついている」

江夏の手記は当時復刊されたばかりの月刊「ベースボールマガジン」にも掲載された。残念ながら、その号は手元に残っていないが、野村と自らの南海残留拒否という行動を擁護する内容であったと記憶する。

(写真=週刊ベースボール昭和52年10月24日号。著作権は著作権者に帰属します)