2021年12月8日水曜日

「真夜中の電話から、長い一日が始まった」(2)

「野村監督が南海からいなくなってしまう」ことは小生にとってとてつもなく大きな衝撃だった。そして解任の理由とされた「公私混同」とは何なのか、それも十分に理解できる年齢ではもちろんなかった。

 

さらに、『月見草の唄 野村克也物語』から引用:

「あと二試合残っていた。しかし、以後、出番は球団に奪われた。しかし、以後、出番は球団に奪われた。野村にとって、この日が南海最後のゲームになった。

翌二十六日、雨でノーゲーム。二十七日、帰阪した。すでに主役不在のまま、『解任』は既成事実に向かって走り出していた。(中略)

野村夫妻の弁明を聞いてみよう。

『送迎バスには神宮球場から表通りまで、一度だけ乗ったことがある。雨が降り出し、タクシーが拾えなかったから。他の選手の家族もよく利用していた』

『子供が練習に参加した件にしても、下の子(注:ケニー野村?)は監督就任二、三年目頃から、マスコットボーイのように、皆が扱ってくれていた。まだ十三、四歳でしたからね。上の子(注:ダン野村?)が練習を見て貰ったのは一度だけ。それも練習時間の前だった』

『選手の家族が、家で同僚批判をするのは珍しいことじゃない。それをグラウンドの采配に持ち込んでいるというのは、勘ぐり以外の何物でもない』

『遠征先に妻子を泊めるなど、考えられない』

そして、東京遠征の際の宿舎の問題。

『以前からオーナーの了解をいただいていた。チームには迷惑をかけていないと思う』

その他、いろいろと指摘された「公私混同」も、おおむねこういった、いってみれば些細な出来事にすぎない。なかには、春のキャンプで沙知代がベンチにすわって、タバコをすいながら選手に指示を与えていた、という『中傷』もあった。当時の関係者に問い質しても、『一』が『十』となったり、伝聞が定説となっている例が、ほとんどだった。

しかし、野村は裸にされてしまった。

そのくせ、彼に『全権』を委ね、『独走』させ、『公私混同』を放置してきたことになる上層部に対する責任追及の声は起こらなかった。そして球団は一方で、沙知代の身辺調査までやっている。事件の真相を解く一つのカギがここにあるといっていい。(中略)

『解任』から三年たった八〇年末、野村の引退(ママ)を知らされた他ならぬ葉上(注:葉上照澄・比叡山延暦寺大僧正)も、ごく親しい人に、『あれは初めからお膳立てがととのっていた。広瀬を監督にするため、わしらは利用されたんや』と語っていたという」

「ごく親しい人」が誰なのかを長沼石根は明らかにしていない。

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(Facebook: 昭和51~52年の南海ホークス)

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