2021年12月23日木曜日

「財を残すは下」「でも、まあ、金が残ったからなあ」

野村克也が夫人の行状を原因として監督の座を去ることになるのはこれが最初で最後ではない。2度目の原因となった夫人の行いは脱税という犯罪であり、経歴詐称も暴かれた。知る限り、南海球団が解任前に行ったと言われる夫人の身辺調査の内容が明らかにされることはなかった。詐称したまま国政選挙にまで出馬する厚顔、そして、その詐称に出馬依頼前に気づかず、立候補させた政党の杜撰さに恐れ入るのである。夫人の経歴と人柄については、実弟による『姉 野村沙知代』とケニー野村の『グッバイ・マミー 母・野村沙知代の真実』に詳しい野村は江本、門田、江夏の三人を南海ホークスの「三悪人」と呼んだが、南海球団が消滅した理由について言えば、その根源は野村夫妻にある昭和50

年頃にはすでにチーム内は相当ひどい状態で、「野村ではチームを掌握できない」というのも大げさな話ではなかったようだ。

『南海ホークスがあったころ 野球ファンとパ・リー部の文化史』(永井良和/橋爪紳也、2003年)という南海ホークス、大阪球場、そしてパ・リーグを社会学的な視点でとらえた著作がある。そこには野村解任について、「さまざまな事情か
ら八シーズン目を終える前に解任される」「当時のゴタゴタやメディアが報じたスキャンダルなどについては触れない」とだけ書いている。著作の趣旨には直接関係するものでないことは理解できるが、ともに昭和35年生まれの両著者には、わざと具体的に言及しないことで、あの解任とその後の南海ホークス凋落について本当は二言、三言では足りず、山ほど言いたいことがあって爆発したいのだと主張しているように読めてしまうのだ。

また『左腕の誇り 江夏豊自伝』(波多野勝構成、2001年)には、こんな一節がある:

「野村さんの嫁さんの性格とか、あのときとった行動はマスコミで報道されているとおりです。僕は監督と一緒に南海を辞めたんですが、そのときのことで、古い友だちがみんな野村さんから離れていった。で、僕は新幹線のなかで二時間ぐらい話をして、別れぎわに言ったんです。

『友だちがいないというのは、寂しいですね』

『う-ん、そうやな。でも、まあ、金が残ったからなあ』

しんみりした顔で、野村さんがそう言うのを聞いた瞬間、ああ、この人はそこまで変わってしまったのかと思った。その人その人の考えがあるでしょうし、僕だって、『ゼニ、ゼニ』と思って投げていたことは確かだけれど、僕の金銭感覚とはだいぶ、かけ離れている。残念なのは、前の嫁さんが亡くなったとき、葬式にも行かなかったことです。それは野村さんの意思じゃない。いまの嫁さんが行かせなかったんです」

また、『甲子園への遺言』には、「野村さんはすっかり変わっていました。いろいろなことに疑心暗鬼になる人に変わっていました。かつての野村さんはそんな人じゃなかった。相変わらず、夫人の介入もありましたし……」と高畠導宏がヤクルト時代について語っていたと記述されている。南海、ロッテ、ヤクルトと、野村の懐刀だった高畠である。

『南海ホークスがあったころ』には、野村自身の著書『デッチ人生20年』(1973年)から、「ゼニが人生の第一条件だ」「ゼニがとれなきゃプロじゃない」という文言が引用されている。幼少時代の影響なのだろうか。一方で、野村には「財を残すは下、事を残すは中、人を残すを上」という言葉もあるらしい。何かうすら寒いものを感じてしまい、純粋な野球論だった(残念ながらもう手元にないが)『敵は我にあり』と『背番号なき現役』の後に出版された彼の人生論じみた著作にはまったく関心を持つことはない。同じ話を別の著作で繰り返しているだけのような気がするし、そこには「財を残す」が垣間見えるのである。そして、通算600号本塁打を記録したときに語った「月見草」。南海の監督解任に関する事情を知る人がずいぶん減り、ヤクルト監督として、まったく別の「野村克也」が現れてからは、月見草どころか、彼が自己評価の基準としていた「ひまわり」よりも高くなっていったのである。それもこれも、「嫁さん」が原因だろうが、周囲を失望させながらも、ご本人は「すべてウソでした」と言いながら幸せそうだった。また、マスコミはこの夫婦を美談のネタとして扱っていた。

(写真=『あぶさん』第一巻「鷹一は七歳」/南海ベンチ(上:昭和51年9月2日(仙台)/下:昭和52年(大阪)(撮影日時不明))。著作権は著作権者に帰属します)

(Facebook:「あの頃の南海ホークス」で、もう幻の「はばたけホークス」(PDF版)を販売しています)

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