2021年12月10日金曜日

「真夜中の電話から、長い一日が始まった」(3)

小生にとって、南海ホークスと野村克也はまさに同義だったのだ。

そして、解任報道から完全沈黙した後の10月5日に大阪のロイヤル・ホテルで開かれた会見での発言である。

「この1週間、いろいろ私なりに考えてまいりましたが、私は鶴岡元老にぶっ飛ばされたと思っております。スポーツの世界に政治があるとは思ってもみませんでした。鶴岡政権の圧力の前に、私は吹っ飛んだわけでございます」

南海球団は1日、広瀬叔功を後継監督とすることをすでに発表しており、野村が南海に残ることは、もはやあり得なかった。半月足らずで監督に就任するいきさつを広瀬が明らかにしたことはないはず。表向きには、野村解任があってから突然の就任が決まったということだろうが、そうではなく、数カ月前から筋書きが決まっていたと疑うことにそれなりの理屈が成立する。南海ホークスは野村を更迭したことで、江夏、柏原に加え、長年にわたって打撃コーチを務めた高畠、そしてヘッドコーチだったブレイザーも失うことになる。長いトンネルに入ったまま、出口の場所さえ見つけることなく、南海ホークスは昭和63年を最後に消滅する。

解任報道後、柏原純一とともに野村と行動をともにする江夏豊は、「週刊サンケイ」(昭和521027日号)での独占手記で、次のように述べている(『甲子園への遺言 伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯』(門田隆将、2005年)から引用):

「そもそも、私が監督の解任をはっきり知ったのは、九月末、スポーツ紙にデカデカと報じられる日の前夜、日本ハムとの試合で東京に遠征していた時だった。

その夜、私は気心の知れている高畠コーチ、純一の三人で鮨を食べ、午前一時ごろホテルに帰ると、東京の監督宅から電話があり、奥さんが真剣な声で『今すぐ来てちょうだい』という。

何だろうかと思いながら、高畠コーチと私が監督宅へ向かうと、沈んだ表情の監督がボソリと、『明日、新聞に載るで』という。

それでも何のことか分からないでいると、監督はつぶやくようにこういった。

『もう、おれ、首やなあ』

そこで初めて事情が飲み込めたわけだ。

そういえば、その日に限って、あるスポーツ紙の大阪のデスクがわざわざ東京まで出てきており、妙な感じはしていたのだが、まさかと驚くと同時に、監督を解任に追いやった背景には、陰謀―何かどす黒い陰湿な動きがあった、と直感しないわけにはいかなかった。“公私混同”に名を借りて、さまざまなデタラメを言い触らした人間を、私にはある程度察しがついている」

江夏の手記は当時復刊されたばかりの月刊「ベースボールマガジン」にも掲載された。残念ながら、その号は手元に残っていないが、野村と自らの南海残留拒否という行動を擁護する内容であったと記憶する。

(写真=週刊ベースボール昭和52年10月24日号。著作権は著作権者に帰属します)

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