大阪球場の一塁側内野スタンドの最上段、照明塔の真下で座ることなく観戦したのは、昭和63年10月15日の土曜日。南海ホークスのこの本拠地球場における最終戦。入場無料だった。
試合終了後、杉浦忠監督以下、コーチ、選手がひとりずつ名前を呼ばれてベンチから姿を見せ、マウンドを中心にして一三塁間に整列する。
「藤原満コーチ」というアナウンスの後、すぐ近くにいたおっちゃんが「ふじわら……」とつぶやいたのが聞こえた。叫んだのではない。つぶやいたのだった。その気持ちが痛いほどわかった。野村野球を熟知し、三塁から司令塔の役目を果たしていた藤原満。打撃コーチだった高畠のすすめで「すりこぎ(ツチノコ)バット」を採用した選手であり、内角低めの球を無理やり右に打ち返していた姿が記憶に残る。市原稔は東京スポーツの「ID野球の原点・シンキングベースボールの内幕」で「内角球を強引に逆方向へ――。その打ち方をいち早くマスターしたのは藤原満だろうか」(東京スポーツ2020年12月29日)と述べている。まったく無理やりの見事な右打ちだった。打席に入ると、立ち位置を決め、そしてこの重いバットをガツンとホームベースに叩きつけていた。これでバットが折れてしまったこともあったとどこかで読んだように思う。
藤原は「野村さんが唱えた『シンキングベースボール』の洗礼を受け、チームを勝利に導くための自分の役割が明確になった」、「野村さんに感謝」し、「恩人の一人」だと述べている。野村克也の死去に際しては、「野球に関しては本当に素晴らしい方で、私がここまでこれたのも野村さんのおかげ」とも話しているが、「野球に関しては」という一言を見逃さずにはおれない。また、野村沙知代から電話が原因で夫人が泣いていたこと、野村解任時に南海に残留したことについて、後年、ノムラさんから「この裏切者が」と「冗談交じりに非難」されて困ったとも語っている(以上、西日本スポーツ「ホークス一筋・藤原満さん聞き書き『ぶれない』」)。
知りたいのは、なぜ残留したのか、江夏、柏原、高畠とどんな話があったのかということだが、それは語られていない。あの時のことをこの連載記事でもっと語ってほしかった。彼が「プライドそのもの」と呼ぶ南海ホークスは、私の誇りでもあった。
あぁ、南海ホークス。あぁ、ノムラさん。
野村克也氏が南海ホークスの監督だった時代、とりわけ昭和51年と52年について記してきました。余計な一言もあったかもしれないし、また言い足りないこともあったかもしれません。記憶は薄れゆくばかりであり、これを以って最終回といたします。
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