2022年1月3日月曜日

無残、難波球場(2)

内野席で一段踏み外せば重症を覚悟しなければならなかったような、大阪球場。昭和52年の開幕前にスタンドが改装された。毎日放送だったか、ラジオ大阪だったか覚えていないが、この改装についての問いに野村監督は、「ペンキを塗り替えただけ」と答えていた。その通りだった。 

また、ファウルエリアの芝生は外野からコーチのボックスを越えたところまで延びていたものだが、それがボックスの外野側手前までとなり、最後は外野エリアにあるだけとなった。

昭和53年に当時としてはきわめて画期的な横浜スタジアムが、その後は東京ドームが開業し、関西では阪神の本拠地である甲子園、そしてハイカラさを何とか保っていた西宮と比べても、難波の大阪球場の貧相さは森ノ宮の日生とともに目立ったのである。

その後は、小生の投書が役に立ったのかは知らないが、線路の資材を使っていたという客席からの視野を遮っていたスクリーン、つまりバックネットが新しくなったぐらいで、以前記したファンブックと同様に洗練無縁を貫いた。昔からプロレス興行やサーカス、またコンサートの会場として使われたりもしたが、野球場としての使命を終えてからは、無残であった。その扱いは野球場への冒涜でさえあった。

 (写真=平成6年9月24日、著作権は著作権者に帰属します)

(Facebook:「あの頃の南海ホークス」で「はばたけホークス」(PDF版、全冊)を販売しています)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 

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