2022年1月1日土曜日

昭和53年の野村南海?

あの頃の南海ホークスー野村克也と江夏豊が南海ホークスでともにプレーしたのは、昭和51年と52年のわずか2シーズンでしかない。

しかし、あのわずか2年の記憶は今も強烈なのである。

解任の大騒動などなく、抑え投手として確固たる地位を築きつつあった江夏、主力としての成長が著しい柏原純一(後日本ハム、阪神コーチ)、そして野村野球を深く理解していた打撃コーチの高畠導宏(康真)(後ロッテ、ヤクルト、ダイエー、中日、オリックス、千葉ロッテ)、また野村野球の原点を作り出したと言ってもいいヘッドコーチのドン・ブレイザー(後広島コーチ、阪神監督、南海監督)がそろって昭和53年のシーズンも変わることなく南海ホークスのユニフォームを着ていれば、鶴岡時代を超え、当時の阪急ブレーブスにも勝る最高の南海ホークスがそこにあったはずなのに……と、もうあれから長い長い年月が経過したのに、まだ考えてしまう。  

もちろん彼らだけではない。 

昭和52年のシーズン終了後に野村監督がどんなトレードを行ったか想像することもできないが、その後の長い不遇の時代を経験したグラウンドにおける情報司令塔だった藤原満、柏原と同様に新世代の主力としてセカンド、ショート、センターの「中心線」を守った河埜敬幸、定岡智秋、新井宏昌。捕手野村がいなくとも53年にも16勝を挙げることになる藤田学。一本足の片平晋作、試合終盤の代走と言えばこの人たちだった、阪田隆と堀井和人。そして、山内新一、佐藤道郎、門田博光。

 (写真=右上から:昭和51年1月28日(ホテル南海)、同3月13日(大阪、対読売オープン戦「週刊ベースボール昭和51年3月29日号」)、同4月4日(平和台、対太平洋クラブ)、同4月7日(大阪、対近鉄)、同5月11日(大阪、対阪急)、同8月23日(平和台、対太平洋クラブ)、撮影日時不明、昭和52年5月13日(大阪、対阪急)、同6月14日(大阪、クラウンライター)、同8月21日(仙台、対ロッテ)、同9月10日(大阪、対ロッテ)。著作権は著作権者に帰属します)

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