2022年1月1日土曜日

無残、難波球場(1)

ラッパ小僧たちが現れてからずいぶん年月が経つが、小僧たちのおかげでプロ野球の応援はすっかり変わってしまった。外野席に陣取る「応援団」は試合を見ているのだろうかと考えさせられる。緊張しながら静かに見守る場面など野球には存在しないような雰囲気。ゆっくり観戦ということが外野席では不可能になってしまった。吹奏楽部を動員して応援するのは高校野球と決まっていた。小僧たちのガナリたてるだけのラッパ演奏とは違って練習を積んでの演奏だから、音楽を聴かせようともする。プロ野球の試合は異質で、「かっとばせー」などという高校生レベルの応援はなく、客席のオトナたちはみんな玄人だった。

 

また、野球場自体もずいぶん様変わりして、もっぱら家族連れ向けの遊園地化してしまい、ある意味では野球観戦を楽しみたい人たちが近づきにくい空間になってしまった。酔っ払いのオッサンがいる場所ではなくなった。そんな意味で野球場らしかった大阪、日生、藤井寺、そしてちょっと上品な阪急沿線の西宮。もう、どれも姿を消してしまった。

 

後楽園が人工芝になれば、どこもかしこも人工芝。東京ドームができれば、新しい球場はどこもドーム型。運営上の利益を優先して、野球場が野球場でなくなっていった。やっと最近になって、広島のマツダスタジアムがその傾向を破ったかなとは思う。

 ちなみに、まだドーム球場が日本になかった頃、大阪球場のドーム化計画をスポーツニッポンが伝えていた。工法は気圧差を利用したもので、後の東京ドームと基本的に同じだった。

 

狭い敷地に建てたもんだから、大阪球場の内野スタンドは急傾斜で、一段踏み外せばグラウンドまで真っ逆さまに落ちそうだった。 

チームの成績に比例するように、球場の整備も難しくなっていったのだろう。コーチャーズ・ボックスからホームベース方向へと伸びていたファウルグラウンドの芝生は、ボックスを越えた所までになってしまい、そしてボックスの外野側まで短くなってしまった。スクリーン(バックネット)に沿うようにあった芝生もなくなってしまった。

野球場としての使命を果たした後は、「なんば大阪球場住宅博」となり、無残な姿をさらすことになった。

 (写真=昭和31年8月19日、同49年6月2日、同50年5月5日、同56年6月9日、同63年10月2日、同63年10月15日。著作権は著作権者に帰属します)

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