サイン盗みとシンキングベースボール。『月見草の唄 野村克也物語』から引用する。「阪急への仕返しが始まりだった。ウチの投手がいくら頑張っても、サインを盗まれてポカスカ打たれる。いっそのこと、ウチもやろうってね。ところが、西鉄がすでに三原(脩監督)さんの時代(1950年代)からやっていたと聞いて、驚いた記憶がある」 「……ある南海生え抜きのOBはいう。 『科学的といえばそれまでだが、ボクはサイン盗むの、スポーツマンライクやないと思う。スポーツは体力と体力がぶつかり合うもの。絶えず相手のスキにつけ込もうとする野村の野球は、ボクはいややった』」 「野村が監督を解任されたあと、南海は“サイン盗み”をピタリとやめたという」。 「南海ホークス四十年史」は、「ややサイン盗みの野球に走った面があったのではあるまいか。もっと、ファンが望むスリルのある野球、楽しいゲーム、後継者の育成、それらに徹していたなら、あのような苦汁をなめずにすんだのではなかったか」とし、その後に「これからの活躍を祈りたい」を付け加えている。 諜報戦については、門田隆将の『甲子園への遺言 伝説の打撃コーチ高畠導宏の生涯』にも詳しく述べられている。昔読んだ『敵は我にあり』『続敵は我にあり』『背番号なき現役』(いずれも野村克也著)にも触れられていたはず。
記憶にあるのは、XX内野手。彼は、球種を教えてもらわないと打てなかったらしい、逆に広瀬は「球種がわかったら打てない」と言っていたそうだ。 ……各球団とも、前半、中盤、後半とサインの方式を変えるのは当たり前、1イニングごとに変えていくチームも珍しくなかった。 では、南海はどうだったか。 なんと、南海は、サインの方式を“一球ごと”に変えていた。藤原満は、そんな諜報戦のただ中での野球をこう回顧する。 「サインが盗まれているのが前提ですから、一球ごとにサインを変えるのです。やり方は、キャッチャーが出すサインの何番目が本当のサインなのか、そのたびに変えればいいんです……」 では、次は何番目のサインだ、というのをどうバッテリーは決めるのか。 「それは、別の人間がサインを出すのです。本当のサインが何番目かを決めるサインなので、“順番”の番をとって“バンテー”と呼んでいました……。 南海では、サードの私が出していました。一球ごとに、私がグローブを外したり、ヒザに手をやったりするわけです。その私の動作によって何番目に出すサインが本当のサインなのかを、あらかじめ決めてあり、バッテリーが私を見て、それを確認するのです。それに従って、キャッチャーは、ピッチャーにサインを出していました」(『甲子園への遺言』) 藤原はまた、シンキングベースボールの高度さについて、「……野村さんが、これからは3番、4番だけが1000万プレーヤーやないぞ。巨人の土井のように2割5分でも、1000万プレーヤーになれるんや、といっていました。たとえアウトになっても、1、2番がセカンド方向にゴロを打ってランナーを進めると、“ウォー”とベンチ全体が喜ぶような雰囲気になっていました」 そんな中で藤原は、当時のセ・リーグの野球が次第に子供の野球のように感じられてきたという。
「ピッチャーのクセを見るのが習慣になっていましたから、無警戒なセ・リーグの野球は、屁みたいに感じましたよ。オールスターでも、キャッチャーのサインは見放題だったし、ピッチャーのグローブの中まで見ることができましたね。 ……とにかくスキだらけでした。なんでそんなに走れるのか、なぜモーションが盗めるのかと、よく聞かれましたが、セのピッチャーはスキだらけでしたからやりやすかったですよ」。(同) 江本が阪神に移籍して、そのレベルの低さに驚愕したと言うのもうなずける。
(写真=D・ブレイザー(昭和44(1969)年頃)。野村とブレイザー(昭和45(1970)年頃)。ブレイザー(1975年「南海ホークスファンブック」から)。ブレイザー(同)。高畠導宏打撃コーチ(1977年「南海ホークスファンブック」から)。著作権は著作権者に帰属します)
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