2008年4月5日土曜日

蔵前町の大阪球場とビュフォード

浪速区蔵前町の大阪球場(難波球場)でプロ野球で最初に見たのは、昭和46(1971)年3月25日の南海X巨人のオープン戦(大阪)だったように思う。意図してその試合を選んだのか、偶然だったのかわからないが、それは杉浦忠の引退試合でもあった。

同年だったのか記憶にないが、村山実がまだ現役だった頃で、甲子園球場の阪神巨人戦にも行った。おそらく村山が監督兼任だった時代で、外野手はW・カークランド、池田純一、藤井栄治の布陣だと思う。一塁には遠井吾郎。F・バレンタインがいたかもしれない。だとしたら、昭和45(1970)年のことになる。「バレンタイン」は自分にとって覚えやすい名前だった。プロレスラーの「ジョニー・バレンタイン」がいたから。

甲子園球場の外野席。試合の経過や結果はさっぱり覚えていない。ただ、試合が終わった後、京都の自宅にたどり着いたのは、子供の起きているべき時間を過ぎていた。多分、夏休みだったのだろう。

神戸のUHF局サンテレビ(京都では近畿放送)が連日試合終了まで放送する阪神タイガースの試合が見られるので、多少は阪神ファンだったとも言える。しかし、西宮の甲子園が遠かったこともあって、プロ野球と言えばパリーグ、それも父親の事務所が大阪府立体育会館近くにあったため、大阪球場を本拠地する南海ホークスであり、地元京都の西京極球場を準本拠地にしていた阪急ブレーブスだった。

最初から南海ホークスが好きだったというわけではないが、パリーグ好きだったことには間違いない。

昭和48(1973)年、太平洋クラブ・ライオンズにD・ビュフォードがやって来た。2年前にボルティモア・オリオールズの一員としてジム・パーマー、フランクとブルックスの両ロビンソン、そして後に長嶋巨人でプレーすることになるデーブ・ジョンソンなどと、日米野球のために来日した一流のメジャーリーガーだった。精悍でカッコよかった。(ちなみに、太平洋クラブのもうひとりの外国人はR・レポーズ。彼は翌年、登録名を「ロジャー」と変更して、昭和52(1977)年までヤクルト・スワローズに在籍した。)

昭和49(1974)年、新たに太平洋クラブには、LA・ドジャースとワシントン・セネターズで主砲だったF・ハワードが加入した。「週刊ベースボール」がカラーグラビアで春季キャンプ中の巨漢ハワードと小柄なビュフォードを「凸凹コンビ」として特集していた。

特にビュフォードは、毎日新聞のスポーツ欄にフェンス際でジャンプ捕球している写真があったりして、ビュフォード熱が上昇していった。

昭和49(1974)年6月。めずらしいことにNHKが西京極球場で行われた阪急と太平洋クラブの試合を全国中継した。太平洋クラブのその後の日程は大阪球場での南海戦。ビュフォード見たさに、父親に難波まで連れて行ってもらった。ハーフサイズカメラの「オリンパスペン」を持参して。

(写真=杉浦忠引退試合入場券。昭和49(1974)年6月2日(大阪):対太平洋クラブ前期8・9回戦。同日の大阪球場入場券。著作権は著作権者に帰属します。)

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