京都に住む子供にとって大阪球場、南海ホークス、難波高島屋は、都会の象徴でさえあった。東映フライヤーズから移籍して、いきなりエースとなった江本がお気に入りだったが、とは言っても、子供がひとりで難波まで野球観戦に行くことも許されず、自宅から1時間半を要する大阪球場へ行くのは年に1度の出来事だった。 リーグ優勝した昭和48(1973)年の日本シリーズは、大阪球場で開幕。第1戦は江本が巨人を相手に完投勝利する。翌日は朝から雨模様。実は第2戦は観戦の予定だった。こんな天候なので、中止だろうと判断して出かけるのをやめてしまった。グランド整備に砂を入れて試合は開催された(写真)。日本テレビ系の読売テレビが放送を始めてびっくり、がっかり……。日本シリーズ観戦の機会は、福岡ドームで行われた1999年の10月23日の福岡ダイエーX中日戦まで待たなければならなかった。年号は平成に変わっていた。 昭和49(1974)年、南海ホークスは前期27勝28敗10分けと負け越して4位、後期は32勝27敗6分けで2位だったものの、後期優勝のロッテからは5ゲーム離された。通算では3位に終わる。江本は34試合に登板して13勝12敗、29試合に登板した山内は10勝6敗、松原明夫は9勝6敗(登板26試合)、また半数以上の68試合に登板した佐藤は7勝8敗だったが13セーブで制定された最多セーブ賞を獲得した。前年、12勝(8敗)を挙げた西岡三四郎は3勝どまりだったが、中山孝一が8勝(9敗)を稼いだ。 打者では、故障で83試合出場にとどまった野村が12本塁打、打率.211の低調。代わりにマスクをかぶることが多かった柴田猛は66試合、黒田正宏は36試合に出場した。前年から出場機会のめっきり減った広瀬は65試合に出場。打率.279を残した。「野村後継」の門田博光は打率.269、本塁打27本。唯一打率3割を記録したのは、W・パーカーだった(.301)。 同時に世代交代も進んでいく。 江本が後に参議院議員になり、大阪府知事選挙に立候補するとは、誰も想像していなかっただろう。 (写真=日本シリーズ第1戦(大阪)での江本と王。第2戦前のグランド整備(「70」は穴吹義雄コーチ)。昭和49年の野村(大阪)、江本(同)、佐藤(西宮)、中山(大阪)、西岡(後楽園)。R・ロリッチとパーカー(西宮)。D・ブレイザー(後楽園)。パーカー(西宮)。江本歌手デビュー。パーカーのサインボールは、年月を経て緑のボールペンで書かれたサインは残念なことにほぼ消滅。かすかに「W」の文字が見える……ような気がする。著作権は著作権者に帰属します。)
(Facebook: 昭和51~52年の南海ホークス)
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