2021年11月23日火曜日

ミナミのホークス、洗練無縁

晩年の南海ホークスはスマートさに欠けると言うか、洗練さと無縁のチームだった。「王天上」「ダットサン」「山内トリオ」。何とかならんかったんか……。ドカベン香川も洗練とはほど遠い。ミナミという土地柄を考えれば、これは必然だったのかもしれないが、いやでも「キタ~神戸」の阪急ブレーブスと比較してしまう。 広瀬時代以降、深緑が復活するまでの明るい緑を中心に配色したユニフォームは「バッタ」を想起させた。ユニフォームで最悪だったのは、米大リーグのパイレーツを模した縦縞。緑のラインの両側を黒ではさんだ三色縞で、おぞましいものだった。さらに、帽子のつばを赤にしたのもいけない。同明度の緑と赤が互いをつぶし合って見られたものではなかった。毎日放送のテレビ中継で山内新一がこのユニフォームでマウンドに立っているのが映し出された時、ため息をついてしまった。金城基泰のフォームがちょっと格好いいと思えば、マスコットのデザインもこれを拝借。そのマスコット自体もド素人がデザインしたようで、いかにも安っぽく、球場から小生の足を遠のかせた。 意見は分かれるだろうが、ホーム用ユニフォームで小生がいちばん気にいっていたのは、昭和51(1976)年のみ使用されたデザイン。Vネックの白地で首と袖にはラインなし。ベルト式でないのは当時を思えば仕方ないが、あれを緑のベルトにしていればさらによかっただろう。 ファンブックの作りも然り。カラー写真が姿を消していき、公式戦中の迫力ある写真も少なくなっていった。監督、コーチ、選手が会した写真は、中百舌鳥球場のコンクリートスタンドで撮影したと思われるものを大阪球場の背景写真に貼り付けていた。大阪球場のフィールドにはコンクリートのスタンドがあんのか!ふむ、ホークスの去った大阪球場には家も電柱も立ってたな……。パリーグ優勝を果たした翌年、大判だった昭和49(1974)年とA4版になったその翌年のファンブックは見ごたえがあった。唯一誇りに思っていいデザインは、言うまでもなくあのユニフォームの胸を飾っていた「Hawks」。

 (写真=大阪球場のフィールドにコンクリートスタンド(1981、83年「南海ホークスファンブック」)。情けないほど工夫のないデザイン(写真=83年「南海ホークスファンブック」表紙。著作権は著作権者に帰属します。権利侵害は罰せられることがあります。)

(Facebook: 「あの頃の南海ホークス」で「はばたけホークス」(PDF版)を販売しています)

2 件のコメント:

Unknown さんのコメント...

はじめまして。いやはや素晴らしいブログで全部の記事を拝見させて頂いております。
いまやパリーグも観客動員は多く、全試合WEBでも見られますし、あの頃とは全く状況が異なりますが、野村、江夏、藤原、金城など個性的な選手も多かったですね。
特に金城の美しいフォームは鮮烈な印象を残しています。
81年くらいにファームで調整登板した金城の浮かび上がる速球を目の当たりにしましたが、それは凄まじい物がありました。
しかしながら、映像でも見られるのは広島の初優勝のくらいなのが何とも寂しい限りです。あの頃のパリーグの映像はなかなか見られる機会がないですね。
また、そのうちに特集でも組んで下さい。ノムさん無き後の低迷期を支えたサブマリンのリリーフエースの勇姿を!あの垂直に右手を真上に伸ばした勇姿を。

Old Hawk さんのコメント...

Yuさん、コメントをありがとうございます。本ブログは小生の極めて個人的な記憶の記録で、データ喪失を防ぐためにウェブ上のブログ形式にしているものです。皆さまにお見せするのがはばかられます。
しかし、当時の南海ホークスに関心をお持ちの方々や、記憶を共有している方々にお読みいただけているなら本望です。
資料の整理や稼業に時間を取られて、更新が滞っていることをおわびします。
また、このブログ自体は昭和52年の公式戦終了とその顛末を記して、完結させる予定にしています。
ノムラさん以降に救援に転向して成功したと言える金城ですが、せっかく彼が控えていてもホークスは勝てなかったのです。